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コラム
安田雅弘演劇の正しい作り方
二つのイベントからお招きをうけた。
偶然どちらも「高校演劇」がらみで、思いがけず高校生と演劇一色の夏を過ごすことになった。
大学演劇出身のぼくにとって高校演劇はいわば暗黒大陸である。そこは新鮮で刺激に満ちた世界であった。
その一端を紹介しようと思う。
イベントの一つは千葉県の先生方に劇団ごと呼んでいただいた合同合宿への参加だ。
毎年県下の高校演劇部が流山青年の家という施設で一堂に会する。それだけですごいが、施設に収容しきれないので希望した全ての高校が参加できるわけではないらしい。しかも1校5名までという制限つきである。先生方のおはなしでは、この規模の合宿は全国的に見ても珍しいということだ。
施設がまた大変なものでオペ室のついた劇場がある上に、各班25名の6つの班が十分に体を動かせる稽古場が冷房つきで用意されている。贅沢である。
ハードスケジュールでもある。
朝6時半に起床、散歩から始まって稽古は夜の8時半まで。食事休憩を抜いても10時間近くある。さらに打合せは夜半まで続く。
合宿のテーマはフリーエチュード、すなわちどういう稽古をするのかを含め参加者に考えてもらう稽古方法の紹介と体験だ。ほとんどの高校生にとっては初体験だろう。
案の定、班ごとに随分とばらつきがある。
「積極的な提案がたくさん出ました」
と担当の劇団員が誇らしげな班、
「ないスね、なんも」というところ。
いずれにせよ2泊3日の最終日には班ごとに成果を発表してもらう予定になっている。各班の作戦会議は時を追って盛んになる。
最終日の発表は「台本を一切使わない」という共通点はあるものの各班30分、バラエティーに富んでいた。ただもう強い感情を表現することに取り組んだ班、メンバーが楽しめる新たな稽古方法を紹介する班、様々な提案を1本の作品としてまとめた班…。
強く感じたのは高校生の感性の柔軟性だ。
よくも悪くも「どうにでもなる」。
自分で考えるよう導けばわずかな時間でそこそここなせるようになる。一方演劇にこれほど無垢であることに危険も感じた。演劇教育の不足は深刻な問題だと思う。
第42回全国高等学校演劇大会(札幌大会)、この審査がもう一つのイベントだった。
これほどの催しが関係者以外にはほとんど知られていない。実にもったいない。
とにかく規模が大きいのだ。
参加校総数は2600を超える。昨年秋に地区大会、県大会を勝ち抜いた学校が年末年始の地方大会を経て今夏は札幌に集まる。その数わずかに11校。高校野球の学校が甲子園に来るよりはるかに高い倍率だ。
キャパ1100人の会場はぎっしり満杯だが、
「あら、少ない方よォ」と言われた。
「やはり札幌はちょっと遠いのよねェ」
迎える側、北海道の先生や生徒は揃いのTシャツ総勢500人、これが全て大会の運営に当たるスタッフなのである。
会場では次々と速報が出る。『らいらっく』という新聞で、これもその生徒さんたちで作っているものだ。公演する演劇部の素顔や公演後の観客の反応を詳しく紹介している。
上演時間は各校1時間以内、仕込みとバラシで20分以内、前述のスタッフの生徒さんがストップウォッチ片手に計測している。
「○○高校、片付け終了□□分です…」
11校の公演内容は実に多様だ。
かつて実際にあったはなしを舞台上でまとめた作品が二つあって、「北海道にやってきた象」と「新しい酪農の方法を研究した人物」が興味深く描かれていた。
「かぐや姫」のパロディをプロ顔負けの大ががりな演出で見せたり、「文化祭のカレー屋さん」をミュージカルじたてにしたエンターテイメント色の強い作品もあった。
「死」「身体障害者」「阪神大震災」といったプロも扱いかねる今日的なテーマをそれぞれモチーフにした正統派作品には感心した。
またごく身近な高校生活を主題にした作品もあり「演劇部の問題」や「昔の友人との約束」が等身大の言葉で素直に語られていた。
同じく高校を舞台にして会話シーンとダンスシーンを交互に見せ、その行間で現代の高校生の意識を語ろうとした意欲的な作品もあり、目を引いた。
「演劇とは何か」という問題をつくづく考えさせられる。
とりあえずぼくはこう考える。
〈演劇とは我々の住む世界をどう把握し記憶するかをめぐる哲学ではないか〉
そこで、舞台に触れたとき記憶に残ったものの構造と記憶に残らなかったものの理由をできるだけ明確にして審査することにした。
審査員は7人。本来演劇に勝ち負けをつけること自体おかしなはなしではある。ただ競いあうことによって参加意欲が高まるという側面も無視できない。
スポーツと違って誰が見ても納得できる形にはなりにくいのだから審査基準を明確にする必要はある。審査は実に厳正におこなわれていたと思うが基準がどこまで明確化し、浸透したかということになると不十分だったように思う。時間も不足している。
全体を通じて感じたことは、高校生たちの表現が実にのびのびしていたことだ。それを保証しているのは顧問の先生方の価値観だと思う。演劇部のレベルは顧問の先生方の見識と演劇理解、そして学校が与える環境に圧倒的に支配されると言っていいだろう。
また、先ほどの合宿でそれからの脱却を試みた「台本至上主義」の根深さも痛感した。
「台本」が悪いのではない。「台本」を通じてしか演劇を楽しめない、作れないという思い込みが貧しいと思うのだ。つまり「演劇」がひどく「台本」に依存している。
「台本」とは基本的には他人が書いた他人の言葉である。シェイクスピアという昔のイギリス人が書いたロミオという中世イタリア人の言葉なのである。
他人が書いた言葉を喋るまえに、いまの高校生に自らの言葉で「自分」が語れるのかどうかが問われなければならない。生徒はプロではない。当然のことながら顧問の先生の道具ではないし、ましてや「台本」を音声化するお喋りマシーンではないのだ。
まず自らを語ること。そして自らが面白いと感じるものは何なのかを「自覚的に追及する能力」が求められると思うのだが、それを演劇教育に求めるのは見当違いだろうか。
「演劇ぶっく」誌 1996年10月号 掲載