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安田雅弘演劇の正しい作り方

【演劇の正しい作り方㉑】アヴィニョン演劇祭/97年10月号

 演劇の正しい作り方21/97年10月号

 劇場を出ると夜の8時。
 まだ昼間のように明るい。
 今日はもう4本見ている。結構歩き回ったのか足が痛む。でも、これからの時間がいわばプライムタイムだ。どの劇場もイチ押しのプログラムを組んでいるはず。かばんからパンフレットを取り出し、ぱらぱらとめくりながら次見る演目のあてをつける。この街を訪れる人の多くはこんなペースで行動しているのではないだろうか。行き交う人々を眺めるとそう感じる。90ページもある「オフ」のパンフレットはフランス語のみの表記で、はじめはまるで理解できなかったが、慣れるにしたがって何らかの目安にはなってくる。
 快適な気候と料理のうまさでは定評のある、南仏プロヴァンスにアヴィニョンはある。周囲を城壁で囲まれた中世の都市で、地図で見るとちょうどレモンのような形をしている。レモンの胴体の一番太い部分に目抜き通りが走っていて、アヴィニョン駅とかつての法王庁を結んでいる。東京でたとえれば新宿駅から新宿三丁目交差点くらいの距離だろうか。街の規模は想像していたよりもずっと小さい。しかしその狭い街の中におよそ100もの劇場がある。劇場とはいっても教会の建物や中庭に客席を仮設したものや(客席が500、2000とデカイ!ところもある)、住居や学校の教室を改造したものも多く、いわゆる劇場設備の整ったところばかりではない。というより、ここでは自分が何かやって人が集まってくれさえすれば広場だろうと道路だろうとそこが劇場として認められる雰囲気に満ちている。街全体で学園祭をやっているような浮かれた気分が漂っている。そうした気分のせいか夜中も人通りはたえず、酒を飲んで殺気立ったような人も見かけない。安全な印象を受ける。
 今日の一番目は朝10時、旧法王庁の裏手にある小さな劇場にかかっていたピエロの出し物だった。街のいたるところに所狭しと貼られたチラシの中でそれが目を引き、ふらふらと入ってしまった。見るものは大体そんな風に決まる。チラシのセンスとパンフレットから読み取れるおぼろげなデータ、あとは運。かなり運まかせである。
 上演作品は大きく分けて、正式招待作品「イン」と自主参加作品「オフ」の二種類に分かれる。「イン」が真ん中にあって、その周辺に「オフ」が散在しているイメージを持つかもしれないが、実際にフェスティバルの賑わいを作っているものは圧倒的に「オフ」の作品群だ。一つの劇場で1日に5~6のカンパニーが公演をおこなう。それこそ朝の10時から夜中の12時までひっきりなしに。それがほぼひと月つづく。劇場は80ほどあるから単純に計算しても1日に400の出し物があることになる。そして実際にある。大半のカンパニーは毎日決まった劇場でその時間に公演をおこなう。上演時間は長くても1時間半ほどだが、とても見きれない。レベルもさまざま、優れたものから、おいおいこんなのありかよ、というものまで雑然と同居している。だから初めての人間は見てみないと始まらないのだ。
 「イン」は超一流のカンパニーもしくはプロデュースの公演で、劇場も占有し、お金もかかっていて、長くても10日間ほどの公演だ。スゴイと思える作品にも幾つか出会った。「オフ」は入れないということはほとんどないが、「イン」はフェスティバル前に売り切れているものも多い。運営主体も事務局も全く別らしい。
 昨晩見た「イン」の演劇はしかし決して面白いとは思えなかった。キリスト教の聖人の話でセリフが全くわからないのだから仕方ない。けれども、そうした要素は全ての作品にあるわけで、大掛かりな装置と法王庁のロケーションには圧倒されたものの、俳優はつったってしゃべるばかりで、一体何が招待に値する公演だったのか理解できなかった。
 軽々に結論すべきではないのかもしれない。が、全体に演劇は低調であるという気がする。演劇祭とはいっても演劇ばかりではない。音楽もダンスも演芸もサーカスもある。正確には総合舞台芸術祭なのである。面白いと感じられるものが演劇的なダンスであったり、演劇的な演芸や音楽であったりする。どうしてなのか。演劇はここでは何より言葉でありそれがわからないせいなのか、とも考えたが違う気がする。意味などわからなくても切実な表現はヒリヒリ来るし、楽しい表現はホンワカ来る。思いのほか来るものなのだ。ところがほとんどの演劇は何も来ない。面白い演劇となると一人芝居だったりする。ダンスや音楽や演芸に出演するにはまず技術が、そして集団の場合その技術の共有が必要となる。それに匹敵するような技術やその共有が演劇の場合ほとんど見られない。もちろんヨーロッパ最大の演劇祭とはいえ、これが全てではあるまい。また、フェスティバルのごく一部に触れたにすぎないのである。
 ただ、痛感したことは、
 「技術によってこそキャラクターが立つ」
 ということ。一体演劇の技術とはどういうものか。共有するにはどうすればよいのか。ボクらも避けては通れない問題だろう。
 今日の最後はオーケストラと俳優の共演する野外劇にした。学校だろうか、広い中庭にオーケストラのステージと、300人ほどのベンチ席が組まれている。巨大なポプラの樹に照明がついて出し物が始まる。ほとんど雨が降らない気候だからこそこれほど野外劇が可能なのだろう。オーケストラの演奏をBGMに俳優が美しいフランス語で朗読をしたり一人芝居をしたりする。俳優には美しい言葉を守る使命があることを強く感じる。
 その時、不思議な気分に襲われた。
 ここにいる観客は1日に何度もステージと向かい合う。一本のお芝居が世界の捕らえ方の一つであるならば、1日に幾つもの世界観に接することになる。面白いものもあるし、つまらないものもある。ぴんとこないもの、何かひっかかるがよくわからないもの、大半はそんなものだ。しかしこのフェスティバルを、おびただしい舞台芸術の作品たちによって構成された巨大な図書館のような空間と考えると、とても贅沢な気分になる。読み切れないほどの本が並んだ書架、その中から焦ることなく自分にぴったり来る本をじっくりと探すことができる。ひと月という期間、400を超える本数、それが毎年開催されるというエネルギー…。文化予算が削られこのところ寂しくなっているという話も聞いたが、まだまだこの図書館は大きい。
 心地よい風が吹いている。
 ボクらはまだまだ小さな本屋さんしかない場所に暮らしているんだな、と思った。

「演劇ぶっく」誌 1997年10月号 掲載

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