ライブラリ

コラム

安田雅弘演劇の正しい作り方

【演劇の正しい作り方㉒】医学としての演劇(初級編)/97年12月号

 演劇の正しい作り方22/97年12月号

今回は現代人と身体について少し落ち着いて考えてみることにしよう。これを考えないとさまざまなトレーニングを紹介してもその根本のところが理解できないのではないかと思うのだ。

気持ちと身体の距離

以前、ここでのトレーニングの目的は、心と身体の通りをよくすることにあると述べた。つまり、現代人は心(ここでは便宜上「気持ち」と言っておこうか)と身体の通りがよくないとボクは考えていることになる。
実際よくない。
よくないどころか、気持ちと身体の通りがよいと逆に現代人失格ということになりかねない。
説明しよう。
たとえば、寝坊したとする。「だらしない」と言われる。自分でも「情けない」と思う。あるいは、友人の家に行った際に空腹に耐えきれず、冷蔵庫をあけて中のものを食べてしまったとする。「信じられない」「はずかしい」ということになるだろう。けれども、寝坊をすることも、思わず目の前にあった食べ物をほおばってしまうことも気持ちと身体の通りがよいということだ。「眠い」という気持ちに「眠る」という身体。「空腹」という気持ちに「食べる」という身体。
実に通りがよい。
そして通りがよいということは、「眠い」から「眠った」わけでも、「空腹」だから「食べた」わけでもない、ということも意味している。まず「眠っ」たり、「食べて」しまったのかもしれない。そう思ったからそうしたというより、そうしてしまった結果、自分がそういう気持ちであったことを知った可能性もある。
これは重要なことだけれども少し複雑なのでいずれあらためて説明することにする。
気持ちと身体の通りがいいということがトレーニングの目的である。しかし、一般にそれは「情けない」「はずかしい」劣った人間になることも含む。ボクらはそうならないように小さいころから教育されてきている。身体が「眠ろう」と思っても気持ちで「起きる」ように。身体が「空腹」であっても気持ちで「我慢する」ように。「優秀」とはそういうことで、そういう人間になるように。

突然死

ところで、突然死というやつをボクは無視できない。
1991年の厚生省の発表によれば、壮年期に死亡する人の8人に1人が突然死らしい。働きざかりの人が突然に死ぬ。高血圧だったり、過労だったりはするが、生活に支障のあるような病気があったわけではない。
仕事はデキる。前日までバリバリ働いている。ここひと月の睡眠は1日平均3時間。近頃あまり眠らなくてもよくなったなどと冗談を言っていて、それがある朝亡くなっている。これは気持ちと身体の通りが極端に悪くなった結果なのではないかとボクは推測する。亡くなった方はおそらくきわめて「優秀」であったに違いない。
身体は疲れている。へとへとでぼろぼろで「休ませてくれ」と悲鳴をあげている。それなのに気持ちは「平気平気」とお構いなし。もしも身体と気持ちが少しでもつながっていたなら、亡くなるずっと以前にぐっすりと眠りこんでしまったことだろう。寝坊したかもしれない。ところが責任感のためかやる気のためか起き続け、仕事をやり続けた。
気持ちを身体から離すように訓練されている現代人。身体がどんな声をあげようと気持ちが無視しているうちに身体が限界を迎えて滅び、同時に当然のことながら気持ちも滅んでしまう。気持ちにしてみれば死ぬつもりなど毛頭なかったことだろう。
演劇のトレーニングはまずこうした現代人のありさまを見つめることから始めなければならない。無視するようにしむけられてきた身体の声を気持ちが聞くように。身体はどうしたがっているか。何を望んでいるか。どんな状態にあるか。対話の時間が必要だ。

私たちは決まった筋肉しか使っていない

突然死は極端な例としても、ボクらと無縁ではない。学校で勉強しているうちはさほど感じないかもしれないが、職業を持って社会に出ると、日々の暮らしは繰り返しの要素が多くなる。使う筋肉や思考が限定される。
これは何も悪いことばかりでなく、能率がよくなる側面もある。素人にはこなせないようなスピードで高い品質の労働を提供できるようになる。「プロ」だ。
しかし、気持ちと身体の通りのよさという視点から見ると、これはあまりいいことではない。繰り返しの生活はストレスを身体の一定の場所に蓄積していくことになる。ある人は特定の内臓、特定の筋肉に集中する人もいるだろう。
大胆な推測を許してもらえるなら、ボクは現代の成人病の原因はほとんどそこにあるのではないかと疑っている。内臓疾患、慢性の筋肉痛、さらには更年期障害と呼ばれるものにしても。機械だって同じ場所にばかりムリをかければ故障が早くなる。大事に使えば長持ちする。

痛みを味わう

ボクらの気持ちと身体は離れるようにしつけられてはいるが、決して完全に分離しているわけではない。休日に遊びやスポーツに興じるのは特定の場所にたまった疲れやストレスを分散させようという気持ちが意識的であれ無意識的であれ働いているからだと思う。
旅行に行くのもそれと無関係ではないはずだ。日ごろの人間関係や環境から離れて普段とは違った筋肉を使い思考をめぐらす。旅にはそういう効用があると考えられる。
一般の人や未経験者が演劇表現に親しむ場合にもこうした効果は確実にある。
ワークショップで身体訓練の際、
「痛くなきゃダメだぜ」
と注意する。ここで紹介したトレーニングを実際に試してみる場合も同じことだ。
柔軟運動も筋力トレーニングも痛い。
当然だ。
身体が叫んでいるのである。突然呼び起こされ、酷使され驚いているのである。痛みをじっくりと味わってほしい。そしてその叫びに耳を傾けてほしい。注意深く聞くと、ただ「痛い」というばかりではない。その背後にここちよさがひそんではいないだろうか。痛いけれどもすっきりしたような感じ。それはとても重要な感覚だ。その感触があればトレーニングは続けられる。
身体を親友や恋人になぞらえてみるのも理解を助けるかもしれない。その場合気持ちが自分自身だ。
自分の要望だけを一方的に押しつけていたらどんな親友や恋人だって愛想をつかすに違いない。へたをすれば恨まれ復讐されるかもしれない。突然死はおそらくそれだろう。身体もまた気持ちとは別に感情を持ち、思考しているのである。
たまには気持ちと身体でじっくりと話し合う時間を持ったらどうだろう。身体はどんな状態で、何を欲しているのか。

医学としての演劇

今回は初歩。「医学としての演劇」と題をつけたのは「演じる」ことが医学的に一体どのような効用があるのか探求したいからだ。
精神医学の分野では、患者にサイコ(心理)ドラマなど自分とは別の人間を演じさせ、実際の治療に役立てている現場もある。それはそれで興味深い。
ボクの好奇心は少し別のところにもある。「演じる」ことを科学的に観察できないかと思うのだ。「演じる」際に俳優の内部にはどのような変化が起こっているのか。そもそも「演じる」とはどういうことなのか。演出家や観客の主観とは違った視点でそれを眺めることができないものだろうか。

「演劇ぶっく」誌 1997年12月号 掲載

コラム一覧へ