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コラム

安田雅弘演出ノート

ぺとりこおる/2018.2

鏡/安田雅弘(監修)

 芝居の内容を一部漏らすことになるかもしれないが、お許しいただきたい。
 作中「鏡」という言葉が気になる形で、何度か出て来る。演出の谷と水寄に理由を尋ねると「忘れてしまうものの象徴として『鏡』を選んだ、それ以上の意味はない」という。彼らがこの作品を作る上でインスピレーションを得た夏目漱石の『文鳥』には、実は「鏡」の記述は一ヶ所しかない。主人公が文鳥を見て過去に親しくした女性を思い出すところだ。

昔紫の帯上でいたずらをした女が、座敷で仕事をしていた時、裏二階から懐中(ふところ)鏡で女の顔へ春の光線を反射させて楽しんだことがある。女は薄紅(あか)くなった頬を上げて、繊(ほそ)い手を額の前に翳(かざ)しながら、不思議そうに瞬(まばたき)をした。この女とこの文鳥とは恐らく同じ心持だろう。

 私には担当二人が「鏡」を選んだことこそ「象徴的」に思える。というのも、研修生が年間を通じて体験するのは、ほかならぬ「鏡作り」だからだ。シェイクスピアは『ハムレット』で、主人公にこう言わせている。

芝居というものは、昔もいまも、いわば自然にたいして鏡をかかげ、善はその美点を、悪はその愚かさを示し、時代の様相をあるがままにくっきりとうつし出すことを目指している 
(第三幕第二場 小田島雄志訳 白水社)

 演劇は鏡だ。それは私たちの「個体」「社会」「歴史」を映し出す。私はどういう人間なのか、どのような社会の一員なのか、歴史のどこに位置しているのか。それに気づく鏡である。鏡がないと私たちは自らの姿をとらえることができず、自分を見誤る。その鏡を用意するのが「演劇にまつわる教養」だ。研修生が稽古場で触れるのはこの〈演劇的教養〉なのである。教養の理解が深まるほど鏡の反射率は高まり、より客観的に自分を見つめられるようになる。演劇関係者だけでなく、性能のよい鏡は本来、全人類に必要なものだ。
 演劇というと「まず台本」と多くの人は考えるが、決してそうではない。台本を使って芝居を作るのは、〈演劇的教養〉の中ではかなり高度な作業だ。研修生は台本の稽古をほとんどしない。では何をやるのか。
 次のページを見てほしい。作品の目次「構成表」の中の、「朗読シーン」と書かれている箇所以外のシーンを個人的に、あるいはメンバーで相談して創作する。それが研修期間に行なうことの殆どだ。たとえば最初にある《ルパム》「文鳥」。これは喜多京香の作ったダンスである。次の「劇団稽古場①『掃除』」は出演俳優たちが話し合って作り上げた寸劇。続く《ものまね》「美容師」は遠藤瑞季が、日常で出会った美容師をまねたものだ。さらに《ショートシーン》「トイレの連鎖」は、簡単なルールを決めて行なう即興劇から出てきた。膨大な数の創作が行なわれ、大半はボツになる。選ばれたわずかなシーンを材料にこの芝居は作られている。その過程で彼らの鏡は磨かれ、それは千穐楽まで続く。彼らの磨きをかけた鏡とはどのようなものなのか。それによって彼らがどれだけ変わったのか。それを想像しながら、一風変わったシーンの数々をご覧になるのも、舞台の楽しみ方の一つだと思う。

 本日はお忙しい中、お運びくださり、誠にありがとうございます。お帰りはどうぞお気をつけて。

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