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コラム

安田雅弘演出ノート

うリアしまたろ王/2018.10

演出ノート/安田雅弘

『うリアしまたろ王』という題名

 『うリアしまたろ王』というふざけた題名は、決して、ふざけてつけたわけではない。単純に『浦島太郎』と『リア王』は似ているな、と感じたことからこの題名になった。
 『リア王』はシェイクスピアの中では比較的知られた戯曲だ。それでも、冒頭のリアと三人の娘の場面を知ってはいても、物語全体をご存じの方はあまりいないと思う。一方『浦島太郎』は日本人であれば、子どもの頃から親しんできた誰もが知る物語だ。ただ、主人公の細かい気持ちは伝えられていないし、知られてもいない。
 『リア王』のセリフは『浦島太郎』の心のうちを語るものと考えることができるし、何となく重く深刻で疎遠な感じのする『リア王』は『浦島太郎』の話だと考えると親しみがわく。その両者の合体が今回の題名になっている。
 仮に『浦島太郎』の竜宮城を「青春」と置き換えてみる。『リア王』とは、「戦争」や「政治」といった「青春」を追うことに夢中だった男が、ある日突然、自分の「老い」を強烈に自覚する物語なのである。リア王ほど甚だしくはないまでも、それなりの歳になればこういう思いは誰でも襲われるものだと思う。
 また、『リア王』は、「『人生』というものは、当人にとって、幸福なものであろうと、悲惨なものであろうと、傍から見れば、滑稽なものに過ぎない」ということを痛切に描いている作品でもある。
 むろん人生はかけがいのないものだ。しかし「傍から見れば、滑稽に過ぎないものでもある」という視点は、「人生」を複眼的にとらえることを可能にし、私たちの感性を豊かにしてくれるのではないだろうか。
 人生の滑稽さは『うリアしまたろ王』という題名の滑稽さともつながる。

ホームレスの文化祭

 『リア王』を読み進めるうちに、思い出したことがある。もう10 年以上前、一時期大阪に滞在して仕事をしていたことがある。その際、大阪のホームレスを集めてオーディションをし、ゴーリキーの『どん底』を上演したらどうか、という企画をたてた。言い方は悪いが、社会の「どん底」にいると思われている彼らの『どん底』がどのようなものになるのか、目撃したかったのである。リアカーに舞台セットを乗せて徒歩で大阪中のみならず、全国を巡って上演したら面白いのではないか、などと想像がふくらんだ。
 結果的にはさまざまな事情でその計画は頓挫してしまうのだが、取材と称して西成のあいりん地区のいわゆるドヤ街に宿泊し周囲を歩き回ったり、さまざまな人の話を聞いたりした。その一環で元ホームレスの人たちの社会復帰事業として紙芝居を上演(?)する催しがあると聞きつけ、それを見せてもらった。「紙芝居」と聞いていたが「紙芝居」は背景だけで、その前で彼らが『桃太郎』を上演する。ろれつが回らなかったり、桃太郎が同時に複数出て来たり、とりとめのない内容ではあったが、やっている方々は真剣でとても面白かった。
 『リア王』はホームレスの話である。リアは心ならずも家を失う。しかし最終的には家を捨てる。またこの作品はリア家とグロスター家の家庭崩壊の物語でもある。家や家庭をはじめ、私たちの生活や常識にまつわるものをあらかたはぎ取った上で、人間の正体とは何かに迫っている。実を言うと私はシェイクスピア作品の中で『リア王』は最も「演劇的」な作品の一つだと考えている。「演劇的」というのは、演劇が社会で果たす役割を最も反映しているということだ。つまり「社会を傍観する視点」で描かれている。地位や財産に固執するリアが滑稽な印象を与えるのはそのためだ。ホームレスは「どん底」にいるのではない。一般社会の「埒外」にいるのだ。
 今回は『リア王』をホームレスの主観で作ってみようと思った。普段は一般人の夢や目標を傍観しているホームレスの一群が、自らの「青春」を探りながら、文化祭のように一生懸命に取り組む『リア王』だ。もちろんこのホームレスたちは「存亡の危機(存亡の機)」にある私たちとオーバーラップするのである。

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