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コラム

安田雅弘演出ノート

交交(こもごも)/2021.2

俳優の入口のこもごも

 演劇っていうのは「この世にいない魂」を舞台上に現出させる行為のことである。『ロミオとジュリエット』のロミオもジュリエットも台本の上だけに書かれた人物で、実際この世にいたわけではない。つまり戯曲の登場人物というものはすべて「この世にいない魂」ということになる。たとえ実在の人を描いたものでも、脚本化され舞台化された時点で、本当のその人ではなくなる。
 演劇は「この世にない魂」をお客さまに見せて、こもごも感じていただくものだ。
 そして「この世にない魂」の出現を担当するのが俳優である。

 研修プログラムは、その俳優への入口と考えてもらっていい。一口に「この世にない魂」なんて言ってしまったが、生易しいものではない。だって考えてもみてください。「自分じゃない魂(人間)」になるんですよ。
 多くの方が勘違いされているのではないかとワタシは疑っているが、台本を渡されて、それをおぼえると「ある役」になると思われている節がある。もちろん台本を「ある感情」で喋ることは必要だろう。そこは皆さんご存知。それじゃ台本のせりふを「ある感情」で読むと「役」になるのだろうか? なるわけがない。そんなの何でもない。俳優の入口にさえ立ってません。要は台本と「ある役」の間にどのような作業があるのか、世間の方々は思いのほかご存知ないのである。

 では俳優の入口で何をするのか。――自分を知る。己をとらえる。徹底的に観察する。できるところまで認識する。これが俳優修業なんです。自己把握、なんて聞くと少し意外かもしれない。けれども、もし本当に「自分じゃない魂」になろうとするのであれば、大前提として「自分」のことがわからなければ「自分じゃない」状態を想定できませんよね。

 従って研修生になると、何か台本をもらって「役作り」なるものに取り組むのではないか、という一般的なイメージは、とっととどこかへ吹き飛んでしまう。その代わり「難しく考えなくていいよ、ふだんどうしてる?」という問いかけが山ほど浴びせかけられる。
 たとえば「ふだん、どうやって歩いてる?」。
 ためしに皆さんも考えてみてください。足はどこから地面に着きますか? ――そう、かかとから。で、かかとが着く瞬間に反対側の腕、すなわち左足が地面に着く瞬間に、右腕はそれまで前に振られていたのが、後ろ向きに方向転換する。左腕は後ろに振られていたのが前向きになる。これは同時です。またその瞬間、反対の右足のかかとは浮いています。……

 そんな風に、日常的にはごく当たり前で一々考えてもみなかった何気ない動作、しぐさ、喋り方、喋る内容について、くまなく深掘りして自分自身を捕捉していく。
 あるいは「難しく考えなくていいよ、何が面白い?」と尋ねられる。身近にいる面白い人を真似てみて。――え、ちょっと待って。面白い人って……いなくはないけど、突然真似ろと言われても。研修生は戸惑い、狼狽する。そして自分が「面白さ」というものをかなりアバウトにとらえていたことに気づくのである。

 おわかりと思うが、この作業は果てしない、終わりがない。実は研修生を終えて劇団員になっても、つまりプロの俳優になっても、この仕事に就いている限りは永遠につきまとう。すなわち劇場でお客さまにこもごも感じていただくはるか前に、俳優は稽古場のあちこちでこもごもと、自宅で、街角でひたすらこもごも自分と格闘しなければならないのである。

 今年度の研修プログラムは、通常一年間のところ、コロナのために半年間になりました。この時節に研修生をやりたい人なんているのだろうか? という担当者の心配をよそに、4名、しかも女性ばかり集まってくれました。本来なら外部の劇場を借りて行なう修了公演も、劇団のアトリエでの開催になりました。むろん悪いことばかりではありません。劇団の元気隊長・中川佐織が短期集中で山の手事情社独自の機動力と発想力を気合注入しました。稽古しなれたアトリエを劇場にしつらえたのでホーム感にあふれています。その成果をこもごも味わっていただければ何よりです。

監修 安田雅弘(劇団 山の手事情社・主宰 演出家)

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