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コラム

安田雅弘演出ノート

池上show劇場【DELUXE】/2021.9

三密浴

 数年前のことになる。東急線のまあまあ大き目の駅近くにあるその店の印象は強烈だった。のれんをくぐったとたん、別の国に来たような錯覚におちいったのだ。視界の先に広がった喧騒は、日本では出会ったことのない、どちらかといえば東南アジアの市場で目にするようなたぐいのものだった。店員はこちらの人数を聞くと、かべぎわの席を指し示したが、向かい合いでなく、ならびだった。見渡してもその場所しか空いていなかったので仕方なくすわった。平日の真っ昼間だというのに満員なのである。

 もとは中華食堂だったというその居酒屋は、四人掛けのテーブルを五六脚つけて一列にし、それが三列川の字にならんでいる。奥にカウンター席もある。タバコの煙がたちこめ、その下に客の喋ったり注文したりする声が響きわたる。さらにその下でビールを注ぐ音や食器の触れ合う音が鳴っている。ラフなTシャツの店員たちがたゆたう紫煙の中、狭い通路を注文票や食べ物飲み物を手にせわしくときにゆったりと行きかう。大声で手を挙げないと、店員から注文を取りに来ることはない。そのままいつまでもすわっていることになる。
 ビールと簡単なおつまみを頼んで人心地ついたのもつかの間、隣の友人と話をしようとしても聞き取れない、声が届かない。まあうるさい。こういう状態では、よほど話したい内容でもなければ大声にはならない。思いにまかせつらつらおしゃべりする雰囲気ではないのだ。しぜんおつまみを口にしながら二人ともちびちび黙って飲むはめになった。話したいことがたまっているのか、そもそも大きな声の人たちが集まっているのか、声はとぎれない。しばらく飲んでから、そのエネルギーにあてられるような形で私たちは店を出た。その間も客は引きも切らず、偶然出る客があれば席にありつけるものの、断られて顔を渋くゆがめて出ていく人たちが少なからずあった。
 話しができないことに懲りて、その店に二度と足を向けなかったのかというと、実は逆であった。むしろその居酒屋へ頻繁に通うことになる。仲間と連れ立っていくことはまれで、一人でたびたびでかけた。酒や肴がうまかったからではない。居酒屋になっても麺類や丼のメニューは残っていてそれはそれで店の魅力の一つなのだろうが、私にはさして大きな要素ではなかった。訪れる理由はほかにあった。
 店内のわあんとした風情、すなわち喧騒そのものが私を惹きつけた。時を忘れてその場に身を置いていると何とも言えない不思議な安心感に包まれる。それを求めて足を運んだのだ。ビール瓶や料理の小皿を前に周囲のざわめきに抱かれて着座していると、普段無意識に研ぎ澄ましている緊張感や警戒感が溶け、洗い流されるような感覚に見舞われる。いや逆に緊張感や警戒感がそれまでの自分の中にあったことに気づかされるといった方が正確だろう。それはもしかすると「個人」というものが今ほど明確でなかった古代の人びとの意識に回帰した状態だったのかもしれない。騒々しさの中でリラックスするのである。そしてその体感を呼び起こすのに必須だったのが、その店の密閉・密集・密接、すなわち「三密」であった。
 チェーホフの『かもめ』(神西清訳 新潮文庫)の第四幕にこんな場面がある。

メドヴェジェンコ  ちょっとお尋ねしますが、ドクトル、外国の町のうち、どこが一等お気に入りました?
ドールン  ジェノアですね。
トレープレフ  なぜジェノアなんです?
ドールン  あすこの街を歩いている群衆がすてきなんです。夕方、ホテルを出てみると、街いっぱい人波で埋まっている。その群衆にまじりこんで、なんとなくあちらこちらとふらついて、彼らと生活を共にし、彼らと心理的に融け合ううちに、まさしく世界に遍在する一つの霊魂といったものが、あり得ると信じるようになってきますね。

 ドールン医師の述懐は、野外での体験なので正確には「三密」とは言えない。しかし「個人」が希薄になり「集団の意思」とでもいうような「巨大」なものに身をゆだねる感触は似ている。仮にこの状態を「三密浴」と呼ぶ。
 さて、そこで演劇である。このたびのコロナ禍で私は「演劇は三密のこととみつけたり」としみじみ感じているが、上記の、「個人」を超えた何か「巨大」なものに身をまかせている時間が稽古の際、往々に訪れる。それは俳優「個人」の「現実」が消え入り、「フィクション」という「巨大」な世界を俳優たちが共有した瞬間にやってくる。それが訪れない稽古場、あるいは作品を私は演劇とは呼ばない。「役者は三日やったらやめられない」という。しかし一般に思われているように、それは脚光を浴びて人に見られる快感のことよりも、この「三密浴」を指しているのではなかろうか。そして「三密浴」は本番で客席のパワーを得て激しく増幅し、舞台鑑賞の悦びにつながっているのではないかと、今私は思うのである。

安田雅弘(劇団 山の手事情社主宰・演出家)

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