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コラム

安田雅弘演出ノート

池上show劇場【PREMIUM】/2021.11

演出家はストーカーか

 この一年半、一人芝居に取りくんできた。自ら望んで、というよりは「三密」を避けるための不可避的な流れである。われながらふしぎだが、演劇をやってきて一人芝居をつくるのは初めてだ。理由は特に思い当たらない。単純に機会がなかったのだと思う。それが今回、結果的に【DELUXE】と【PREMIUM】とでいきなり16本もつくるはめになった。一人芝居づけの毎日だ。
 稽古は、一人ひとりをただじいっと見ているだけの時間なのだが、同時に自分の仕事というか作業というか、オレ何でこんなことしてるんだろうと「演出家」としての自分を見つめなおす時間にもなった。
 多くのかたは演出家の仕事をご存知ない。稽古場で俳優相手に何をしているのかなど想像もつかないのではないだろうか。
 自分の場合、一人芝居では特に、俳優を見ている。当たり前だろうと思うかもしれないが、一人の人間を1時間から2時間、毎日数人の俳優を見ていく。日によってちがうものの6時間から10時間。一人の人間を1時間凝視するのは、ふつうに考えればかなり異様な事態ですよ。ストーカーかよ。まてまてストーカーでもこんなには見続けないぞ。いやそんなこともないか。ま少なくともストーカーなみであることは確かだ。つまり一人芝居の稽古で演出家はむりやりストーカーになることを求められる。別の言い方をすれば、いやでも舞台上の人間の心の中に入っていくことを強いられる。そのあたりが、おのれの欲望の暴走にまかせたままのストーカーと違うところか。
 さらにストーカーと違うのは、毎回目の前で展開する物語が同じだということだ。昨日はシャワーから出て来たところを覗き、今日はテレビを見て笑っているところを眺める。ということがない。毎日シャワーならシャワーのみ。それが続く。ストーカーより変態かもしれない。
 よく見ていられるものだな、と他人ごとのように自分でも感じて、いったい何を見ているんだろうと考えると、役者の衝動を見ている。もう少し言うと感情を生む衝動の発生地点を探っている。あるセリフ、今回なら近現代日本文学になるわけだが、その文章なり単語が発語される際、それが俳優の魂のどこから出ているか、それを見ている。そこに向けた俳優の集中力も見ている。衝動の発生源をちゃんと捜しているかを見ているのである。正確には、見ながら自分の魂と引き比べつつモニタリングしている。すぐれた文学や演者は、自分の心にこんな場所があったのか、という発見を驚きとともに提示してくれる。おそらくそれが本番をご覧になっているお客様の心の中で起こることなのではないかと思う。狙った地点から発語されているか、ちょっとずれているのではないか、いやいやそもそもその周辺にその衝動は埋まっていないぞ。そんなことを考え、感じ続けて演技を眺めている。俳優の魂をレーダー照射してじっと観察しているような作業。そしてその結果を役者に伝え、できる限り共有する。
 衝動が正解と思われる場所から生まれると、言葉は俳優の身体の中で響きわたる。彼らにとってもそれは新鮮な体験であるからだ。同時に身体も(たとえ止まっていても)躍動する。そしてそれは私の中でも共鳴し、それはそれは心地よい時間が到来する。それゆえいいお芝居は何度見ても飽きない。反芻可能なのである。
 めったに訪れないその瞬間を求めて役者と協働で探索しているのが日々の稽古ということになる。最終的にはそれを全てのセリフや動作に求めていくので、いつまでも終わらず、飽きないのではないかと思う。

安田雅弘(劇団 山の手事情社 主宰・演出家)

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