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演劇的知の貧困について

演劇的知の貧困について

安田雅弘(2000.11:演劇人)

果たして現在の日本に演劇は存在していると言えるのか。ばかばかしいたとえかもしれないが、大半の日本人は「明日演劇がなくなる」と聞いてもほとんど何の痛痒も感じないのではないだろうか。だから演劇は存在しないのだ、と短絡するつもりはない。しかし、あるのかないのかはっきりしない状態よりも、いっそのこと、演劇はない、もうなくなったのだと前提してそのあるべき姿について夢想する方が、当の演劇に携わる私たちが演劇について改めて考える機会を得られる分だけ演劇振興にとっては有効かもしれない。

演劇を作る人がいて、それを見にいく人がいる、というその現象だけをとらえて、社会に演劇が存在していることになるのだとしたら、そこには多少なりとも誤解がひそんでいるのではないだろうか。その現象だけに演劇存在の根拠を求めているところにむしろ現在の演劇の問題が横たわっているようにも思われる。演劇がはらんでいる、あるいは演劇にまつわる教養、すなわち「演劇的知」とでも呼ぶべきものが社会常識として共有されてはじめて社会に演劇が存在していると言うことができるのではないか。なぜなら「演劇的知」を持たない社会は、つまるところ演劇人を育てないからである。演劇人を育てない社会に演劇を所有することはできない。演劇を所有しないことは国民の生活とは一見何の関係もないことのように思われているかもしれない。いや現実に、そう思われている。けれども、私は演劇教育の不在、また「演劇的知」の貧困によって日本人は随分とうぶで、脆弱な民族になってしまっているのではないかと危惧している。

 

「演劇的知」については、「近代的知」を超克する新しい知の姿を演劇表現の中にとらえた中村雄二郎のすぐれた考察がある(『演劇的知とはなにか』岩波書店)。私なりに概観すると以下のようなものになる。

《普遍性と精密さを備えた〈近代の知〉は、人間の知や学問がある方向に純粋に、自己目的化して発達していったものであり、そこからは人間的生の偶然的なもの、遊戯的なもの、感性的なものが排除された。》その結果として、《知や学問は人間的生との結びつきを失うだけでなく、いわば貧血化して自己革新力と創造性を失い、重層的な現実に十分対応できず、生きた現実との間にギャップを深めることになった。》近代演劇には近代的知の《矛盾や無理が尖鋭にあらわれ》、いわば反面教師的に《演劇が対話のうちに自足してはならないこと、演劇が深層の現実に向かって開かれていることが示された。》そして、《〈演劇的知〉によって開示されるのは、シンボリズム(象徴表現)に充ちコスモロジカルな意味を持った世界の中でのパトス的な劇的行動だ》としている。シンボリズムとは、《現実的なものと想像的なものとを結びつけ》、《人間と人間、人間と世界が有意味的にであうところ》であり、私たちはそのシンボリズムによって自身のミクロ・コスモス(小宇宙)と外界マクロ・コスモス(大宇宙)を結びつけている。「パトス(受動、受苦)的な劇的行動」は、〈パトスの知〉として説明されている。《それは、世界のうちにあるすべての物事の徴候、徴し、表現について、それらにひそむ重層的な意味を問い、私たちの身に襲いかかるさまざまな危険に対処しつつ、濃密な意味を持った空間を作り出す知である。》さらに考察は、《人間の隠された世界を目ざすさまざまな学問領域、つまり精神医学、文化人類学、比較行動学、記号学などにおいて、知るものと知られるものとのいきいきとしたダイナミックな交流を生み出す感受性、直感、経験、演戯性が要求されてきている》として、そこに《総じて〈演劇的知〉と言ってもいいはずの新しい知の範型(パラダイム)が…(中略)…浮かび上がってくる》。《臨床やフィールドワークを本質とする学問は、アート性(技芸性)のつよいもう一つの知である》と展開する。そうした学問は考察の中で〈臨床の知〉と呼ばる。〈臨床の知〉とは、《対象との身体的でかつ相互的な関係が、理論そのものにとって決定的に重要でかつ本質にかかわる学問のこと》とされ、それこそが《〈近代的知〉から排除されたものの豊かさを回復する》 《新たな統合原理にほかならない。》と結論されている。

 

私は演出家として俳優の身体や古今のテキストを通じて、人間のたたずまいや現代社会の様相を捉えようと模索する試みを日々の仕事としている。また年間の相当の日数を一般の市民に向けた演劇ワークショップにあてている。ある意味では、そうしたフィールドワークを通じて日本人の身体や社会を見つめていると言えるかもしれない。まさに前述の「臨床の知」、その現場の視界から、現在の日本人について感じること、考えていることを雑感風に述べてみようと思う。

 

全体として私が強く感じるのは、「味わう」という感覚の欠乏である。受容されるさまざまな刺激を「味わう」感覚の貧困とでも言おうか。広辞苑によれば「味わう」とは、《飲食物の味をみる。また味のよさをたのしむ。》《ものごとの意味または趣旨を深く考える。玩味する。》とあり、大辞林ではそれ以外に、《ものごとの深い意味や良さを感じ取る。》《実際に経験してみて、楽しさや苦しさなどの思いを十分に知る。》ともある。人間がある状態に置かれた時に、それは日常的な状態であっても、特殊な状態であっても、その状態の中に深い意味やおもしろさを発見するという態度、そうした余裕といってもいい、感性の深みのようなものが欠如しているように感じられる。演劇には世界を相対化する機能がある。この相対化こそ、世界を「味わう」上で第一になされなければならないことだと思う。相対化によって生ずる視点は自分の行動を明瞭にするはたらきがある。すなわち、自分がどういうものであるか、どういう社会に住んでいるか、その社会に対してどのような態度で接しているか、そもそも人間存在とはそして世界とは何であるか。そうした枠組み、もしくは自分なりの輪郭は現代社会を生きる上で個人個人が構築していかなければならないものである。そのよすがとして、つまりものごとを相対化し、世界を「味わう」方法として「演劇的知」は有効に機能するのではないだろうか。

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