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コラム

演劇的知の貧困について

社会を味わう視点

安田雅弘(2000.11:演劇人)

トレーニング 2

波打ち際にいる自分をイメージして、波や風や音を感じながら歩く。「海をイメージした歩行」と私たちが呼んでいるこうしたトレーニングも広く行なわれている。言葉では「海」と一言で片づけられるイメージが、いざ自分の想像力をたよりにその場所に身体を置いてみようとしたとき、いかに多くの要素の総合から出来上がっているかが実感される。

まず大まかな場所と時間を設定しなければならない。たとえばきれいな海辺の昼すぎといった具合にである。波打ち際、くるぶしまで海に浸しているとして、波はどちらから来ているか、前なのか横なのかあるいは後ろなのか。日はどちらから差しているか。水温と気温はどうか。風はどちらから、どのように吹いているか。波の音以外に、人や鳥の声は聞こえるか。踏んでいる砂の感触はどうか。本人が波打ち際を歩く必然性やその時の気分を考える前に、まずこの程度の状況をイメージしなければならない。さらにトレーニングでは体験者に、波打ち際からしだいに深い場所へ、すなわち波がふくらはぎ、腿、腰、みぞおち、胸、肩のあたりに来るところまで海の中に入ってもらい、その様子をじっくりと時間をかけてイメージしてもらう。それに従って、水の抵抗や水圧、しぶき、波の高さ、海水の匂い、水面の反射などがイメージを補完する要素として追加される。水にもぐるとそうした要素はさらに増える。浮力、音の聞こえ方の変化、あぶくの感触、塩水の刺激や味、髪の毛が濡れる感覚…。

トレーニングとともに、体験者は、自身の中(ミクロ・コスモス)に海を作りはじめる。はじめはおぼろげだったイメージが、慣れると次第に明確な姿をとるようになる。演技というものは基本的に嘘である。演じ手は実際に演技をしている場所とは違った空間を想定している。年代や人間関係やその場での感情もすべて嘘になる。しかし同時に、演技は観客にその嘘を信じてもらいたいと願われているものでもある。そのためには、観客に信じてもらう前に、まず演じ手がその世界を信じなければならない。観客に一面的な信じ方を疑わせるたとえば「異化」というような手法でさえ、観客が見るに値する非現実の空間を志向するわけで、基本的な構造は変わらない。自分のイメージする世界を信じる、逆に言えば、自分で信じられるところまで世界をイメージするという作業が演劇においては不可欠である。

若年層の政治的無関心が指摘されて久しい。自らの所属する社会に肯定的に関わっていこうとする意志を「政治」と呼ぶのであれば、その無関心には、社会に対してどのような印象を持つかという側面と、その印象に対して具体的にどう関わっていくかという二つの側面があるように思われる。それらは決して分離した二つのものではなく、相互に相乗的に関連したものだと言えよう。つまり、ぼんやりとした印象からは曖昧な関わりしか持てず、印象が明確化するのに比例してコミットの仕方も明瞭になる。社会という複雑な構造を持つシステムに対して、根拠のある関わりをしようと思えば、現実の社会を疑うだけのイメージがなければならない。すなわち、前述の「海」のように「社会」というイメージを築く訓練がなされていなければ、とうてい自分にとって興味深い社会との関わり合いは持てないのではないだろうか。私が言いたいのは、政治的無関心のことではない。自分の存在している、または置かれている環境への関わり方の問題である。自分の周囲に対するイメージの貧困が、社会を相対化したり「味わう」感覚の脆弱さにつながり、結果として人間の存在や行動に対する無関心につながっているように感じられるのだ。人間の尊厳と好奇心には強い相関関係があることを今の社会は忘れかけていないだろうか。人間への好奇心が希薄な社会は人間の尊厳もまた軽視されるのである。

演劇が描くのは一つの社会である。社会とはこの場合価値観の総体と考えていい。ある価値観の(他の価値観との接触や衝突なども含めて)全体を描くことである。というより、その気があろうとなかろうと演劇は価値観の総体を作り手にも観客にも想像させてしまう。出演者が一人であろうと、舞台を狭い限定された場所に設定しようともそうなる。

ひるがえって、現在私たちが生きている社会がどんな姿をしているか、演劇はそれを作り手や観客に確認させてしまう機能も持っている。およそ荒唐無稽と思われる価値観を想定しても、それは私たちの生活する世界がどういうものかを考えたり把握する材料になる。演劇が「世界の鏡」にたとえられるのは、どんな演劇も観客に自身の価値観を確認したり疑わせることができるからである。つまり演劇に関わるということは、私たちが生まれてこのかた社会から教育されてきた動き方、言葉や感情の扱い方、思考や論理の進め方、社会の美学・理念といったものを一旦相対化する視点を手に入れるということである。これも「演劇的知」の一端として社会常識化すべき要素と考えられる。

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