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コラム

演劇的知の貧困について

悲劇を味わう視点

安田雅弘(2000.11:演劇人)

《ギリシア人がりっぱな悲劇を書いたという事こそ、ギリシア人が厭世家ではなかったというはっきりした証拠》であり、《悲劇は、人生肯定の最高の形式》である。《否定や逃避を好むものは悲劇人足り得ない。何もかも進んで引き受ける生活が悲劇的なのである。不幸だとか災いだとか死だとか、およそ人生における疑わしいもの、嫌悪すべきものをことごとく無条件で肯定する精神を悲劇精神という》。小林秀雄は、『悲劇について』(角川書店)の中で、ニーチェの言葉を引いて悲劇を論じている。《外的必然に屈服すれば人間は一個のメカニスムとな》り、《内的自由が全能ならば人間は神になる》。《ところが人間は、そのどちらでもない。この中途半端な人間の状態を肯定するならば、進んでこの現実の状態は、必然とか自由とかという図式的な区別を超えたもっと深い状態であると信じた方がよい》。《そしてこういう思想は、各人の生き方のうちに、各人の自覚として現れてくるほかはない。充実した生は、中途半端な人間の現実の状態をそのまま純化しないか。生活の充実感とは、自由な意志が存在全体の必然関係から遊離せず、これと有機的に関係するという感覚ではないのか。》とこの悲劇論は発展しつつ、ニーチェの到達した「運命愛(amor fati)」について言及している。《必然的なものに目を覆ってはならぬし、単にこれに耐えるだけでもいけない、進んでこれを愛さなくてはならない》。

直感にすぎないが、ここで解説された「運命愛」こそ「味わう」ことの本質なのかもしれない。それは私たちが悲劇というものに向かい合うときの態度と関わりがある。悲劇は、私たちが、歴史や社会を相対化する視点を手にするだけでは味わうことのできない、人間とは何か、人生とは何かという問題を味わう視点を提供してくれるのではないかと思う。残念ながら現在のわが国では、悲劇がギリシア時代のように、あるいは私たちの先祖が能を見たときに感じたような力あるものとして機能しているとは思われない。その大きな理由が「演劇的知」の貧困にあり、その敷衍によって悲劇の持っていた力を復権できるかどうかが、演劇の現場にいる私たちの直面している課題である。さまざまな資料によれば、私たちがテキストとして触れることのできるギリシア悲劇は数千人を収容する野外の半円形の劇場で、大ディオニュシア祭のコンクールとして演じられたことがわかっている。それを見ることは市民の義務であり、そこで上演された悲劇は市民に熱狂的に迎えられたといわれる。また、コレーゴスと呼ばれる上演世話人は市民に代わって、公演を行なう俳優たちの生活一切の面倒を見たといわれる。つまり、俳優たちには社会全体からの負託があり、コレーゴスはそれを代替していたと考えられる。そうした負託は、将軍家の庇護のもとに表現を完成させていった能を連想させる。想像するに市民はそこに描かれる英雄たちの運命をすでに知っていただろうと思われる。話には聞いているそうした英雄たちがそれを演じる俳優たちによって瑞々しくよみがえったと感じたときに市民は熱狂したのではないだろうか。私たちの先祖が能に触れた際に感じたであろう興奮とも共通する。小林の言う《メカニスム》でもない、《神》でもない《中途半端な人間》存在を《肯定》し、《必然とか自由とかいう図式的な区別を超えた》、《充実した生》の姿をそこに見たのであろう。たとえばその興奮は、口寄せの依頼人がイタコの呼び出した人物に感じるような興奮と言ってもいいかもしれない。つまり、観客全体が口寄せの依頼人であり、俳優たちはいわば社会から必要に応じて悲劇的な生を生きる口寄せの巫女であったと考えることもできる。そうした興奮を私たちが持たないのは、社会全体が依頼人となるような悲劇的な生を生きる存在がこの社会には存在しないためなのだろうか。社会はそれを本当に必要とはしていないのだろうか。確かに社会は高度に文明化し複雑になり、人類が共有すべき悲劇はその歴史的使命を終えてしまったのかもしれない。しかし、たとえば私たちはどこから来てどこへ行くのかといった長いこと人類に取り付いてきた問いに対して、私たちはもちろんのこと、人類全体も一向に有効な答えを手にしているわけではないのだ。冒頭私は、「演劇的知」を持たない社会はつまるところ演劇人を育てないと述べたが、さてそれではこの演劇人とはどのように考えるべき存在なのだろうか。あるいは現代の演劇人がこたえるべき負託とはどのようなものなのか。

 

トレーニング 3

何人かのグループで、おのおの自分の心をくすぐるようにして笑う。他のメンバーを笑わせる作為は極力排除する。

これはかなり高度なトレーニングである。そもそもは、笑うという感情表現を訓練するためにおこなわれていたものだが、それをおし進め、俳優の資格を問う内容になっている。俳優を職業とする人間が抱えなければならないある種の狂気といってもいいし、暴力性といってもいいが、それを自覚させるのが目的である。「笑え」といっても人間は笑えるものではない。笑うための興奮状態を作る過程が必要になる。集団で行なうのはそのためだ。相乗効果を利用するのである。誰しも経験があると思うが、笑いに満ちた空間に身を置いていると、ほんのささいなことで笑いが増幅されることがある。そうした狂騒状態を意図的に作る。ただ往々にして、そうした狂騒状態を作ると「面白いことをしよう」という作為が空間に入り込むことになる。他の参加者をさらに笑わせようという意図が混入するのである。感情表現の訓練であればそれでいい。が、この場合は目的から逸れるので、そうした作為は排除する。あらゆる作為を排除していくと、体験者は今私たちが生活しているこの世界を笑うことに挑戦していることになる。何の変哲もないこの世界を意図したときに笑うことができるのであれば、その俳優がたたえている狂気・暴力性は相当自覚的なものと判断できる。私の考える演劇人とはつまりそのような存在である。何も俳優だけに限らない。私たちが暮らしているこの世界の背後にある人間の理不尽や不合理、矛盾といったものと真摯に向き合い、想像力によってその世界と立ち向かう自覚のある人間を言う。演劇人が社会から何らかの負託を受けているとすれば、それは以上のように考えることができると思う。ただその負託が現段階では社会の中で顕在化していない。想像力をどのように発露するかはそれぞれの職能に応じた表現がある。演出家には演出家の、劇作家には劇作家の、照明や音響や衣裳や道具といったスタッフワークにはそれに応じた。そうした想像力の総合として現出する演劇空間は、私たち、つまり人間にはどうすることもできない力と人間との葛藤に観客が思いをいたす内容となるだろう。それは宗教がうまく機能していない私たちの社会にあってある種宗教的な体験につながるものかもしれない。

 

ここまで述べてきたように、わが国の大半の作り手や観客は演劇がはらんでいる、または演劇にまつわる教養の極度に不足した状況にある。それは演劇に関わる者として、悲しく寂しいことであると同時に、民族にとって大きな不利益なのではないかと感じる。たとえば、若い才能が演劇に没頭しようと思った時にそれにふさわしい環境が用意されているかというと、ほとんどないのが現状である。スポーツマンならどうだろうか、あるいは科学者なら、弁護士ならどうか。そう考えると大きな問題を感じざるを得ない。環境が用意されていないことは、社会がそうした才能を必要としていないし、敬意を払っていないということになる。演劇がそうした地位に甘んずることはないと思うし、むしろ現代社会には潜在的に「演劇的知」に対する大きな需要があるのではないかと考える。

最後に村上龍の文章『寂しい国の殺人』(文藝春秋 一九九七年九月号)の一節を引用してこの雑感を閉じることにする。昨年神戸で起きた殺人事件に触れた部分である。《少年が逮捕された夜、友人の音楽家に電子メールを出した。「神戸須磨区での殺人事件の容疑者として十四歳の少年が逮捕された、家族のモデルや家族そのものだけではなく人間が壊れ始めているのかも知れない」そういうメールだったが、出したあとで、「人間が壊れ始めている」という表現が気になってしかたがなかった。間違っているような気がした。(中略)わたしはもう一度彼にメールを出した。 「人間が壊れ始めているなどと、小説家にあるまじきことをさっき書いてしまった。上官の命により日本の兵士が外国人の首を日本刀で切り落としてそれが褒められていたのはたかだか数十年前のことだ、もともと人間は壊れているものです、それを有史以来さまざまなもので覆い隠し、繕ってきた、その代表は家族と法律だ、理念や芸術や宗教などというものもある、それらが機能していない、何が十四歳の少年を殺人に向かわせたかではなく、彼の実行を阻止できなかったのは何か、ということだと思う」音楽家からは次のような返事が来た。 「理念や法律や家族や宗教や芸術という制度を、ここまで麻痺させた国として、今の日本は世界史的にも非常にユニークだと思います、そんな国は多分他にはないよ、アメリカにだってジャスティスという原則があるからね」》

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