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コラム

演劇知の生涯教育

「言語的」美学

安田雅弘(2000:演劇人)

もっとも、私は必ずしもそのようなことが述べたくて、「滑舌」を例に引いたのではない。

演劇的知の大きな要素として、空間や言語の美的秩序の存在ということが挙げられると思う。文学にたとえば散文的、あるいは詩的な美学が存在するように、美術にも絵画(平面)的であったり、彫刻(空間)的であったりする美学があり、音楽にも旋律的、和声的、リズム的な美学が存在する。同様に演劇にも「空間的」な美学と「言語的」な美学とに分類できる大きく二つの美的秩序が存在しているのではないだろうか。必ずしも正確な表現とは思えないが、理解を助ける上で、前者を「演出的」、後者を「劇作的」と言いかえてもいいと思う。

その空間的な美的秩序を構成する要素として、言葉をどのように発するかという技術的命題が存在し、その一つとして、紹介したような「滑舌」の問題が出てくることになる。

これから簡単にそれらの美的秩序について述べたいと思う。まず「言語的」美学についてだが、一般のワークショップで私が必ずおこなう以下のようなトレーニングを紹介する。

 

トレーニング3

参加者を五人程度のグループに分け、それぞれに日常を題材に十分程度の寸劇を作ってもらう。主旨は「さりげないウソ」をついてもらうこと。 「初対面どうしの皆さんが、親戚や家族、同級生や先輩後輩に見えれば、それで立派にウソになります」と説明を加える。

「ショートストーリーズ」と呼んでいるこうしたトレーニングは、参加者がどのように自分の周囲の世界を把握しているか、それを知るためにおこなう。その上でその把握をいかに演劇的に表現にしていくかという作業を初期の段階では相当注意深く指導する。彼らが日常生活をどうとらえているかが見たい。特別な事件やSFめいた展開がほしいわけではない。日常的な風景のどこにドラマを感じているか、その感覚を問うのである。

参加者に対しては極力自分で考えることを求める。まず、その五人はどういう関係なのか、さまざまなアイデアを出してもらう。結論から言えば、五人はより強い結びつきを持っていた方が面白い作品になりやすい。それが「親戚や家族、同級生や先輩後輩」といったたとえになる。

次に、その関係の中での話題、いわば寸劇のテーマについて話をしてもらう。若い人々であれば、「学校」や「恋愛」といったものが主題になりやすいし、年配のグループの場合、「介護」や「相続」の問題などがよく出てくる。 一番力点を置くのは、そのようにして出てきた幾つかのアイデアの中でどの関係やテーマがそのグループの参加者にとって最も切実であるか、という話し合いである。切実であるということは自分にとってプライオリティの高い緊張感がその問題に含まれているということだ。「恋愛」と一口に言ってもその内容は千差万別であり、それをただ告白しあうだけならば恋愛相談になってしまいかねない。他の参加者の共感が呼べるのか、つまりこれから作ろうとしている作品のモチーフとしてふさわしいものなのかという視点にさらしながら自分の「恋愛」について話をしてもらうわけである。私はこれを「演劇的な対話」と呼んでいる。作品作りのために、普段家族や親友にも話せないような内容にまで話題が及ぶこともある。大袈裟に言えば、寸劇作りという状況によって初めて、語られる言葉があるのである。この話し合いの深度がほぼ寸劇のレベルに比例する。

関係や話題が決まったところで実際の寸劇作りに入るわけだが、ことさら演技らしい演技は求めない。その人が話し合いの時に振る舞っていたように、そのグループが決めた任意の関係の中で存在していてもらえばいいのである。家族という設定ならば、その人が日常家族に対するように、同窓生ならば、旧来の友人に接するように初対面の参加者と会話を交わすことができれば、それで立派なウソになる。それが「さりげないウソ」の意味である。演劇がリアリティを持ったウソであることを短時間で体験してもらう。種々の話し合いは、ウソにリアリティを持たせるための準備作業と言えるかもしれない。

面白い、レベルの高い寸劇とは、グループの中で切実なテーマが明確になり、共有されている状態の中から生まれ、それがまた見ている者に共感を呼ぶと言うことができると思う。

もう少しこの段階が進むと、自分たちはどんな雰囲気、どんな空気の中でドラマを描こうとしているのかということにより意識的になる。ドラマチックな場面の空気感といったものをかなり繊細にいきいきと描けるようになる。具体的には言葉の選び方やしゃべり方、すなわち「発語センス」というようなものが洗練されてくる。 「言語的」美学とはつまりそういうことではないかと私は考える。劇作家に求められる能力とは、言語的なやりとりによって発生する緊張感の質にほかならない。演劇の表現としての特徴とは、私たちが現代に生きていて感じる、あるいは触れる緊張感を、ある意図のもとに純粋に取り出し、表現することではないだろうか。 必ずしも現代に生きている作家の言葉だけでなく、古典作品の中から現代的と感じられたり、今日的と考えられる緊張感を取り出して来ることもできる。 そういう美的秩序があるということ、またそれは意外なほど身近に存在しているという認識は重要な演劇的知の一つでありながら、まだ十分に社会一般に浸透しているとは思えない。

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