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プロ出現のために

安田雅弘(2001:俳優養成プログラムパンフレット)

リリックホールの目的

五年前に始めて長岡市にワークショップ講師として招聘されてから、私はリリックホール演劇部門の目標を以下のように設定してきました。「ホールを本拠としたプロの集団を作ること」。つまるところ、公共館の目的はほかに設定しにくいのではないかと考えています。劇団、楽団という形を取らないまでも、独自の表現機関を持つことは、公共館が立てられた時点で前提されていることがらだと思うからです。もちろんすぐれた表現を他の地域から呼ぶこと、それを長岡市の方々に鑑賞していただくことも重要です。しかし、それも最終的な目的としては、長岡市が何らかの芸術的な発信をおこなう集団を持つということに収斂されていくように思われます。

少々長くなりますが、具体的な理由をお話すると、以下の四点があります。

  1. 劇場とはそもそも芸術家が存在する場所であり、その表現は長岡市の文化的な主張であると考えるため。

    劇場は、学校や病院と同様、ただ単に建物を指す言葉ではありません。学校が教師と生徒の関係を内在し、病院が医者と患者の関係を含むように、劇場は芸術家と観客の有機的な関係を模索しなければならないと思います。そのためには演劇に携わるプロフェッショナルが常駐し、さまざまな事業を展開する中で観客を創造し、醸成する環境を築くことが本来劇場に課せられた使命だと考えるのです。また、劇場とは地域住民の方々に奉仕するものであると同時に、地域外の方々にその地域の特性をアピールする道具でもあると思われます。リリックホールは長岡市以外の方々にとって長岡市を理解する上での文化的な顔でなければならない、ということです。その顔には明確なポリシーと言ってもいいし、インパクトのある文化政策上の一貫性と言ってもいい、そうしたものが求められると思います。その核として、芸術家が劇場を本拠としている状態を達成したいと考えてきました。

  2. 小さな東京に堕することなく、独創的な演劇環境作りをするため。 日本全国には約三千三百の自治体があり、それぞれが県民会館なり、町立会館なりの公共館を持っていると言われています。そのほとんどが、自主事業を行ないたいという意志は持っているものの、具体的な方策を持たず、予算が縮小している影響もあって、横並びで、独自性に乏しい事業を細々と行なっているのが実状ではないかと思います。私は、こと舞台芸術に関する限り、リリックホールをそのような会館の一つにしてはならないという危機感を絶えず抱いていましたし、今でも強く抱いています。

    しかし、舞台芸術の製作においては、今でも圧倒的に東京主導の状況が続いています。この状況を打開するには、地域に力のあるカンパニーが出現し、連携していくことが必要です。東京から年間に呼べる公演の数は限られています。それを何年続けていても、おそらく演劇をとりまく人口が画期的に増えることはないと思われます。というのも、演劇は美術や音楽やスポーツと同じように、体験によってしか才能が発見されず、同時に美術や音楽やスポーツなどに比べて圧倒的に基礎教育の機会が少ないからです。

    さらに、新潟県に限って考えると、リリックホール完成後数年して、新潟市にりゅーとぴあが竣工し、予算・人員の規模でリリックホールをはるかに上回る事業を展開しています。同じ県下で、しかも新幹線で二十分ほどの距離にある中で、似たような事業を企画することは独自性を持たせる上で何のメリットも感じられないと考えます。

  3. 長岡発の舞台芸術を作ることで、リリックホールの存在感をアピールすることができると考えるため。

    長岡市にプロフェッショナルの劇団が存在するということは、長岡市発の舞台芸術が存在するということになります。海外では、ドイツのブッパタール市におけるピナ・バウシュやフランクフルト市におけるウィリアム・フォーサイスなど、こうした例は枚挙にいとまがありません。芸術に先進的な地域はレジデンツカンパニーを持っています。その考え方からすると、日本の国立劇場が専属劇団を持っていないのは、事情がどうであれ、後進性を露呈しているということになります。 地方の時代が叫ばれて久しく、地域発の芸術を育てていこうとする気運は基本的にはこれからさらに強まって行くと考えられます。地域の誇りはなにも、偉人が出たことやサッカーチームがあることばかりではないはずです。日本の演劇界をリードできるようなカンパニーを育てる、もしくは維持する環境作りこそ地域の公共館にとって魅力ある目的となるのではないでしょうか。

  4. プロ劇団の存在を頂点として、アマチュア劇団や観客のすそ野が広がると考えるため。

    もし、今後五年の間に長岡市を本拠としたプロ劇団が成立した場合、それは全国的に見て、画期的なことになります。二十万人前後の人口の都市がプロ劇団を持つことができれば、それは他の地域にとっても有効なモデルとなることは間違いありません。私が長岡市にうかがってから五年間の変化を考えると、決して無理なことではないと思っています。

    プロの劇団が存在するということは、劇団の作品上演だけでなく、その周辺に市民の方が演劇とふれあうさまざまな機会を作ることができます。幼児~小中学生~高校生~大学生~社会人~お年寄りに至るまで、演劇に触れるワークショップを開催することも可能でしょうし、その結果としてアマチュア劇団も活性化することになると思います。現在行われている演劇フェスティバルも、全国にないスタイルで実現することが可能になると思います。劇団を成立させるには、舞台上のスキルだけではなく、経営上の問題も含んだ運営のノウハウが求められます。それらの実践に触れることで、迫力ある演劇人が育っていくことになると思います。

以上のような主旨のもと、開館から三年間、小規模なワークショップを実施し、昨年度からより大きな広がりを作るためにリリック野外劇を開始しました。それらはそれなりの成果をあげたと自負しておりますが、プロを出現させるという視点から見た時にまだまだ不十分であり、今回の「俳優養成プログラム」を開始することになりました。

「俳優養成プログラム」について

いまわが国の社会の中で演劇が置かれている立場を考える時、演劇のプロとしての資格は、必ずしも公演活動によって十分な収入を得ていることにはならないと思います。演劇活動を生活の中心に置いているのかどうか、それを第一の優先順位に位置させているかどうか、そのことがプロとしてまず問われる条件でしょう。しかし、それだけでは不十分です。それだけでは単に演劇が好きな酔狂人である可能性もあり、アマチュアの範疇をこえることはできないと思います。

英語のプロフェッショナル(professional)の語源はプロフェス(profess)という言葉で、「信仰を告白する。専門家であると名乗る。」(ランダムハウス英和大辞典)という意味があります。私なりに意訳すれば、演劇のプロフェッショナルとは、「演劇人であるということを社会に公言する決意を持った人」ということになるでしょうか。少なくとも私がリリックホールにおいて求めるプロとは、そのような人たちです。「演劇が好きである」ことにくわえて、演劇の価値を社会に語ることができる人。演劇の魅力をわかりやすい言葉で自分の周囲に語り、伝えていく能力と覚悟のある人。このプログラムを通じて私が参加者に問い、これからも問うて行きたいと思っているのはその能力です。

「オイディプス王」(ソフォクレス)、「ハムレット」(シェイクスピア)、「人形の家」(イプセン)、「かもめ」(チェーホフ)、「青い鳥」(メーテルリンク)、「ガラスの動物園」(ウィリアムズ)、「セールスマンの死」(ミラー)、「動物園物語」(オールビー)、「ゴドーを待ちながら」 (ベケット)、「はだしで散歩」(サイモン)。今回は以上のような作品を参加者全員で読むところから始めました。数も十分ではありませんし、ヨーロッパの作品に限られてはいますが、とりあえず、演劇の世界が蓄積してきた知恵(教養)の一端に触れておくことは、演劇の魅力を語る上で欠くことができないと思うからです。

その上で、一人の劇作家であるチェーホフに焦点を当て、彼の生涯をたどるとともに、彼の生きた時代の情勢や流行、また主な作品などの資料に当たってもらいました。私たちとは無関係な文豪としてではなく、ある時代の中で悩み苦しんで作品を生んだ、血の通った一人の人間としてチェーホフをとらえ直したかったからです。さらに、限られた時間ではありましたが、彼の代表的な短編を舞台化する作業にも踏み込むことができました。

私としては、発表会の具体的な成果そのものよりも、参加者の皆さんの中で演劇に対するイメージがどれだけ豊かになっていくだろうか、ということを重視したつもりです。このプログラムを踏まえて、参加者の皆さんの演劇活動に今後何らかの変化が訪れるのであれば、「俳優養成プログラム」は動きはじめたと言えるのではないかと感じています。

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