ライブラリ

コラム

安田雅弘

高校演劇について/1999.7

安田雅弘(1997.7:テアトロ)

高校生十人のグループに、日常を題材に十分程度の寸劇を作ってもらう。「さりげないウソをついてもらうのが目的です」と主旨を告げ、 「今日初対面どうしの君たちが、同級生に見えたり、同じクラブの先輩後輩に見えれば、それで立派にウソなんだからね」と説明を加える。さらに、「場面は修学旅行か文化祭のワンシーンに限定します」と条件をつける。

夏期研修会と呼ばれる夏休みの集中ワークショップの一風景である。今年は、宮城県、越谷市(埼玉県)、香川県、富山県で講師をつとめる。主催は自治体、県の高校演劇連盟、ホールとそれぞれ違う。参加人数も百五十名を超えるところもあれば、二十人程度のところもあってまちまちである。合宿であったり、かよいであったり形態も地域によって違いがあるものの、内容に大きな違いは作らないようにしている。寸劇作りはその中で柱となるトレーニングの一つである。こういったワークショップの場合、複数の高校演劇部の生徒が各校数人単位で参加する。寸劇用のチームもさまざまな学校の生徒で編成されることになる。それで、「今日初対面どうし」となるわけだ。私は参加者がいかに自分の周囲の世界を把握しているかを知るために寸劇を作ってもらう。つまり彼らが高校生活をどうとらえているかが見たい。特別な事件やSFめいた展開がほしいわけではない。日常的な風景のどこにドラマを感じているか、そのセンスを問いたいのである。それが「さりげないウソ」の意味である。修学旅行と文化祭にシチュエーションを限定するのは、自由に作らせると大抵つまらないものになるからだ。およそリアリティを欠いてしまう。作り手がその世界を信じていても、見ている側にはとうてい受け入れられない。ウソとしては失敗になる。言うまでもなく、演劇とはウソをつくことにほかならない。しかし、そのウソが観客と共有できなければリアリティを失う。高校生の場合、学校生活以外での場面では、はなはだしく現実性を欠いている。私はそのように判断している。気を悪くしないでほしいと前置きをして、寸劇の作り手たちにアドバイスをすることがある。

「君たちは演劇の技術から言えば幼稚園か小学校のレベルなんだよ」と。「中学校からはじめたとしても、四年目か五年目なんだから、そうなるよね」感性や人間性を疑うつもりはないが、自分たちで作るとなると、表現技術が高くないばかりでなく、社会経験の乏しさが目につく。随分と一般社会から隔絶したところで生活しているんだなと感じることが多い。高校生を責めるつもりはない。しかし、社会の矛盾を告発したり、人間関係のにがみを描いたりすることはできないだろうと思う。演劇を通じて人生の意義を問うことなど無理だろう。もちろんそうした認識から外れてくる才能の出現を否定するつもりはない。が、例外の存在は難しいだろう。高校生に対して私はひたすら「自分で考える」ことを求める。それが演劇人にとって、もっとも求められることでありながら、高校の演劇部でないがしろにされていることではないかと感じるからだ。

「うちは全部生徒まかせで…」とおっしゃる学校もあるが、それが「自分で考える」ことにつながるとは思えない。必要なのは「演劇的に考えること」であって、その基礎的な教養もない生徒に全てをまかせるのは放任ではないか。文字を教えずに作文を書かせることに似た、無責任であると思う。ただ、先生方を責めるつもりもない。演劇的知(演劇的な教養や視点を総称したものとここでは考える)はわが国の社会からぽっかりと抜け落ちている知性だと日頃から痛感している。まただからこそ、私たちの出番もある。高校生たちは驚くほど素直に思える。私はむしろその素直さをいぶかしんでいる。疑うことが「考える」ことの第一歩ではないかと思うからだ。敏感な生徒は演劇部を選ばないのではないかと考えてしまうほどである。

コラム一覧へ