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コラム

安田雅弘演出ノート

青い鳥(やまなしTheater College公演)/2000.2

安田雅弘(2000.2)

『青い鳥』は戯曲の形をとりつつも子供向けの作品、つまり童話として書かれている。チルチル、ミチルという子供を主人公とし、登場人物も犬や猫、パンや火といった生活に身近なものが選ばれ、また、少なくとも複数の翻訳から推察する限り、やさしい言葉遣いで書かれている。しかし、すぐれた童話が得てして大きな寓意をはらんでいるように、この『青い鳥』もまた単に子供向けの「お話」という枠をはるかに超えた人間や社会に対する深い考察をその根底にたたえているように思われる。この作品の持つそうした世界観にどのように近づくかが今回の私の作業であったと思っている。作品はいくつかの幕に分かれ、その幕ごとに子供たちはさまざまな国を旅する。眠っている子供たちの部屋に魔女があらわれ、その魔女に導かれるように家の中の身近ではあるが普段会話を交わすことのないものたちとの出会いがある。「犬」「猫」「パン」「火」それに「光」といったものたちである。子供たちは彼らと旅をすることになる。次に子供たちが訪れるのは「思い出の国」で、そこですでに亡くなった「祖父」や「祖母」と出会う。失われた過去、死者との対話である。ついで「夜の御殿」。ここでは「夜」という登場人物を案内人に、「幽霊」「病気」「戦争」「夢」といった抽象的なものたちとの出会いがある。次の「森」では「ポプラ」「ツタ」「カシワ」、「牛」「豚」「狼」などとの対決にも似た、自然との対話が待っている。「幸福の花園」ではさまざまな位相の幸福が登場し、子供たちは幸福という形而上の概念と対話することになる。そして最後の「未来の王国」でまだ生まれる前の子供たちと出会う。やってくる未来、子孫との対話である。

旅を終えた子供たちは、最終幕でようやく両親や近所のおばさんと言葉を交わす。最後に初めて現実の人間との会話がおこなわれるのである。つまり、それまでの対話はすべて現実社会ではおこりえないものばかりだったのだと気がつかせる構造をこの戯曲は持っている。

チルチルとミチルが旅の先々でおこなった対話とは、同時に私たちが日常生活を送りながら忘れてしまったか、忘れようとしているものたちとの交信ではないのだろうか。そしてそれらとの対話は、私たちの社会が抱える多くの深刻な問題を考えたり解決したりする際、もっとも切実に迫ってくるものたちばかりなのではないか。私は以前この公演のチラシに「メーテルリンクを借りて現代の日本が描きたい」と書いた。言葉にすれば以上のようなことを予感として、私はこの作品に取り組むことにしたのだと思う。舞台上のチルチル、ミチルは現代日本の「ウサギ小屋」と称される空間で、家の外に出ることなく各部屋を右往左往しながら、現実には起こり得ない対話を進めて行く。その行為がどのような切実さを持ちうるのかは、客席の皆様の想像力にすがるよりないだろう。

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