ライブラリ

コラム

安田雅弘演出ノート

印象 夏の夜の夢(利賀公演)/2000.5

安田雅弘(2000.5)

『夏の夜の夢』は日本ではとてもポピュラーなシェイクスピア作品で、上演史をたどってみると、明治45年に帝国劇場で在留外人素人劇団が原語上演したのを皮切りに、昭和3年に同じ帝国劇場で築地小劇場が坪内逍遥訳、小山内薫演出で公演をおこない、昭和8年に松竹少女歌劇部が歌舞伎座でレビューにして発表したり(ちなみにこの時のライサンダーはターキーこと水の江滝子である)、と昔からなじみの深い作品である。その後も頻繁に上演され、ざっと計算して、年間何十本とわが国で上演されるシェイクスピア作品の五分の一とか六分の一が『夏の夜の夢』ということになる。その有名な「幸福な喜劇」を上演するに当たって、私がまず考えなければならなかったことは、この作品の主な舞台となる「森」をどうとらえるかということだった。森は単に木々の茂った場所を意味しているわけではない。そこは駆け落ちをする貴族の恋人たちが落ち合う場所であり、下町の職人たちが芝居の稽古をする場所であり、また妖精たちの棲んでいる場所でもある。その森で恋人たちは妖精の勘違いから悪夢のような一晩を過ごし、妖精のいたずらから職人たちの稽古は中断し、妖精の女王とロバに変身させられた職人が身を焦がすような恋に落ちる。つまり普段ほとんど接触を持たない別個のコミュニティーのメンバーが融合する場所と考えられる。英語のforest(=森)はラテン語のforisから発し、foreign(=外国)にも通じるように、地理的な「外」「外部」という意味を含んでいる。混乱による逆転、また、逆転による混乱によって狂気の世界があちこちで発生するのが「森」の世界で、エネルギーに満ちた「森」の混沌を、みずみずしい人間存在の解放区ととらえ、狂気を否定形で規定したくなかった。というのも、この「狂気の沙汰」の結果、人間秩序の「内部」で膠着した状況が、一晩の間に見事に解決してしまうからだ。また、つまるところ現代において、その「混沌」とは見る――見られるという相対的な価値観の中で定位しきれない私たちの姿ではないかということも考えられる。貴族は町人に、人間は妖精に、そして最後のシーンで職人芝居は貴族と妖精に見られている。逆説的に感じられるかもしれないが、私たち人間は見られることによって、返って私たち自身を見つめ直すという生き物なのではないだろうか。そういった種々のことを俳優が生理的に体験し、あるいは客席に生理的に訴えていくことを今回はこころがけたつもりである。

コラム一覧へ