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コラム

安田雅弘演出ノート

じゃじゃ馬ならし(リリック野外劇)/2000.7

安田雅弘(2000.7)

今回は選挙運動が舞台である。さまざまな選挙用の資料をとりよせ、ポスターや看板をつくり、風船をしこみ、たすきやのぼりを注文し、準備室はさながら選挙事務所の様相を呈している。

選挙運動とシェイクスピア作品のとりあわせは、一見奇異にみえるかもしれない。すくなくとも原作を読むかぎりそこに選挙運動の要素はふくまれていない。けれども、私は現代の日本人が海外の古典であるシェイクスピアにとりくむということは、演じられる舞台が私たちにとって「どこ」であるか、あるいは「どのような場所であるか」を明確にすることだと考えている。それが演出という作業ではないかと考えている。たとえば昨年の野外劇『夏の夜の夢』の場合、原作ではアテネの森が舞台であるが、それを日本の「夏祭」におきかえた。「森とはすなわち夏祭である」というのが、その作品にとりくむにあたって私なりに出した解答であった。またふた月ほど前、私の所属する劇団でおこなった『夏の夜の夢』の公演では、舞台を「銭湯」に設定した。それも一つの解答である。解答はもちろん一つではない。原作に「森」と書いてあるからといって、どこにあるのか、どのようなものであるのかわからない森をそのまま舞台にすることは、作品解釈をしていないに等しいことなのではないかと私はおそれる。残念ながら、明治以降日本でおこなわれたシェイクスピア作品の演出は、ほとんどがその作業を抜きにすすめられてきた。シェイクスピアとのかかわりあいは、伝統をかなぐりすて、見よう見まねで西欧の舞台をそのままになぞるところから出発したのだから、あるところまでそれは仕方のない歴史だったと考えることができる。が、現代を生きるいまの私たちに必要なのは、日本人であることの意味を、すっかり西欧化されてしまった日常生活の中に見出していくことなのではないだろうか。それがシェイクスピアを現代的に評価し、より身近にとらえることにつながると私は感じている。つまりもし、私たちの生活のある「場所」、あるいはある「風景」の中にシェイクスピアの舞台を相対化できないのであれば、シェイクスピアはいまだに、かつてと同様、西欧のお手本として無批判にありがたく受け入れるしかない作家であるということになるのではないだろうか。そのスタンスをはなれないかぎり、日本の現代演劇が世界的な視野から作品づくりをする環境は生まれないだろう。

選挙運動のなかでくりひろげられる候補者どうしのし烈なあらそいは、恋がたきの鞘当 (さやあて)に似ている。勝者がすべてを手にするところも、選挙は恋に似ている。また今回は恋だけでなく、結婚のはなしでもある。選挙運動が選挙本来の目的をはなれ、その運動自体でもりあがるところは、結婚式に向けた周囲の狂騒に似ている。そして何より選挙も結婚も、それにつづく長く本質的な営みのほんのスタートにすぎないというところが、今回舞台を選挙運動にむすびつけた最大の理由になるといえるだろう。

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