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コラム

安田雅弘演出ノート

オイディプス王[凱旋二本立て公演]/2010.9

安田雅弘(2010.9)

 この作品は、2002年の初演時には「オイディプス@Tokyo」という題名であった。おそらく前年に起きたアメリカ同時多発テロが、題名を決めるひとつの要因になっている。東京というわれわれの暮らす都市が、ひどくかよわいものに思えたのである。それは、いつなんどき、どんなにひどいことも起こりうる、という感覚であった。また世界状勢に無関係でいられないのに、自分たちの住む社会以外の価値観に私たちはとても鈍感だ、という感慨もあった。そんな東京観日本観を芝居にしたい、と当時の私は考えていた。たまたま「オイディプス王」にそのアイデアと合う何かを予感した。
 白い世界に暮らす乙女たち。取り巻く怒りと暴力、それらは黒。
 というのがそのとき浮かんだイメージで、俳優たちと稽古を進め、スタッフと打合せをする中で、それが肉付けされていった。まず思い描いたのは、白と黒、中心と周縁を、意識と無意志ととらえること。それが夢というイメージにつながり、女性の見た悪夢「オイディプス王」という風景になる。運命に翻弄される人間の姿を即物的に見せたらどうかと考え、それは黒衣、あるいは後見としての運命というキャラクターになっていく。さらに、今の世界を支配している怒りと暴力という価値観は男性原理と考えられ、女性は無意識的な被害者であると考えることもできる。その価値観の破綻は、オイディプスの挫折とリンクするなぁ、と妄想がふくらんだ。
 舞台では、被害者たる現代女性の悪夢、すなわちさまざまな病理と「オイディプス王」がシンクロして進んでいく。「潔癖症」であったり「育児放棄」や「拒食症」であったりする。「恋愛・対人恐怖」なども想起されるかもしれない。オイディプスの絶望は、舞台上の東京の突然の破滅で表現される。突然の破滅。そんなばかなと私は一蹴できない。それは初演時と変わらない。
 オイディプスは価値観の源泉であり、世界の入口である自分の目をつぶすことでこの事件を落着させる。そのとき妻であり母であるイオカステのように自殺しなかったことに、私は希望を見出す。違った価値観、違った世界の存在と登場を、それは言外に予期させるからだ。今後世界はどうなるのか、どうすべきなのか、もちろんわからない。未来を予感にとどめ、具体的に提示しないことが、ギリシア時代から表現者の領分なのである。

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