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コラム

安田雅弘演出ノート

タイタス・アンドロニカス[凱旋二本立て公演]/2010.9

安田雅弘(2010.9)

テロリスト誕生の物語

 2002年10月、モスクワの劇場をチェチェン人の武装グループが襲撃した。ミュージカルを見ようと集まっていた観客1,000人あまりを人質とし、要求が通らなければ爆破すると客席中央に大きな爆弾を設置し占拠した。私と劇団員はたまたまその時期――事件が起き、終結するまでの期間――モスクワに滞在していた。劇場という、モスクワっ子にとってきわめて重要な精神的憩いの場所であり、私たちにとって職場であるかもしれない場所をテロリストグループが占拠するという事態にショックを受けた。ニューヨークやモスクワだけではない、マドリッドやロンドンでも、そして私たちの住む東京でもテロは起きている。オウム真理教の地下鉄事件の日は、数分違いで地下鉄に乗ろうとしていた。
私たちは知らないうちに、またとても無防備のうちにテロリズムの標的になってしまう時代を生きている。
 「タイタス・アンドロニカス」は、テロリストの誕生過程を鮮烈に描いた現代劇である。
 物語は、ローマの大将軍タイタスが領土拡張のため、周辺の部族と戦い、凱旋するところから始まる。彼に悪意はない。帝国を代表し、その正義を貫き、自国の安定と利益のために必要な仕事をした。むしろ模範的なローマ市民というべきだろう。被害者になったことはなく、その人たちには十分なケアをしていると感じていたにちがいない。自覚はなかったと思うが、国家の運動生理を体現していた。
 この作品に展開を与えるのは、捕虜であり被害者であるゴートの女王タモーラが、凱旋のその日のうちに、ローマの皇后になるところである。当のローマ皇帝はタイタスによってその直前に指名されたばかりで、それがこの転機を鮮明にする。タイタスはローマの無自覚な加害者から、痛みにあふれた被害者へと一変する。彼は生まれて初めて国家の運動生理に、生身の一個体としてさらされることになる。そしてやがて自国ローマに弓を引くテロリストになっていく。
 「テロリズムこそは、現代においてユートピアを占拠している唯一の教団なのである」
 私の頭にあるのは、ドイツの劇作家ハイナー・ミュラーの言葉である。テロリズムのどこにユートピアが? と思うが、私なりに解釈すれば、ひとつにはテロリストはパッションと行動が一致しているということがあるだろう。現代を生きる私たちはそれらを一致されることがなかなかできずに苦しんでいる。それゆえ、頭では許されない行為と理解しつつ、テロリズムにはある種のさわやかさがつきまとう。
 さらに、その行動は当人にとっては十分な正義があり、自分という小さな存在が巨大なものに痛烈な一撃を与える、あるいはそれを倒すことができる。これほど甘美な生の実感は確かにテロリストでなければ享受できない。
 現代においてそれが可能なのは、近代以降の国家またはそれに類似した権力と、肉体で衝突したことがある者だけだ。国家の運動生理に引きずられ、自分自身も含め、身内や親しい者を傷つけられあるいは殺され、名誉を失ったと感じた者がテロリストの資格を手にする。私たちの国家観はローマ帝国をモデルにしている。テロリストは何も現代の産物ではない。ローマ帝国の時代からいた。この作品を現代劇という理由はそこにある。
 テロリスト発生の現場では、ムーア人アーロンに象徴されるような、暴力の快感を人生の目的とする人格の登場も避けられない。皮肉なことに、物語の終わりで新たなローマ皇帝となるのは、アーロンにその本性を目覚めさせられたタイタスの長男リューシアスなのである。
 当然のことながら、作品は解決の道筋を教えてくれるわけではない。昨年縁あって会うことができたハイナー・ミュラーの4番目の夫人で映像作家であるブリギッテ・マリア・マイアー女史は、私の「現代において芸術家の役割とは何でしょう? 芸術家はこの世界に何ができると思いますか?」という問いに、「世界を変えることですが、今はそれも難しい。世界を見せることが芸術家の仕事では。」と答えてくれた。

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