ライブラリ

コラム

安田雅弘演出ノート

にごりえ/2014.7

安田雅弘(2014.7)

 情けない話だが、私はこの作品をずっと、明治の酌婦の悲惨な境遇を描いたものだと思っていた。
 好んで酌婦をする女などいない。好きでもない客をとらされる毎日。なじみだった源七は落ちぶれ、その妻や子からは逆恨みされて鬼呼ばわり。突然現われた結城は、自分に好意を持っているだろうに、はっきりせず「出世を望むな」となぞかけのような言葉。挙句に妻子と別れた源七に殺される・・・。
 つくづく救われない物語だなぁ、と感じていた。
 しかし、昨年末からの稽古で、毎日のように原作と顔を突き合わせているうちに、まったくそんな話ではなかったのだと気づかされた。
 お力はどうやら自分の仕事を、天職ととらえている。他の朋輩たちが、惚れた男と家庭を築くことを望み、子供と暮らせないことを嘆いているのとは違う。酌婦であればこそ自分が輝ける、と実感している。
 また同時に、この仕事が世間から見て「基準をはずれた生き方」であることもわかっている。物語の中盤、何かに耐えかね、お力が客を残して座敷を抜け出す場面がある。ここでお力が耐えられないと感じたものは何か。それをどう判断するかで、作品の印象はかなり変わる。当初私は、お力の憂鬱の正体を「酌婦の暮らし」と感じ、作品を冒頭のように理解した。いや、恥ずかしい。
 お力の鬱懐は、酌婦の生活にあるのではない、源七と会えないことでも、結城と結ばれないことでもない。父親や祖父と同じように、世間のものさしからはずれた生き方を、自分も選んでよいのかどうかをめぐる重たい逡巡なのである。そのためらいのストレスが嵩じると、時折何もかも嫌になってしまう。物語ではその発作の中で、お力は結城と偶然に出会う。結城はその後、お力の少女時代と来歴を知り、生き方に半信半疑となっている彼女に、「お前ははずれて生きよ」と鼓舞する。それは取りも直さず、結城にとっては手痛い失恋を引き受けることであった。
 物語の終りで、お力は源七に殺される。合意の上か、無理なのか、作者はぼかしている。一葉はあえてそうしたのだと思う。つまり、お力はその日、源七に殺されることは予期していなかった。その意味では無理心中である。しかし、酌婦として生きて行く決意を持ったお力にとって、なじみの客から心中を迫られ死ぬことは、職業柄「想定内」のできごとだったのではないか。海で生きて行くことを決めた漁師が、予期していない大波をくらって命を落としたとして、それは「想定内」だろう。ある職業を、確信を持って生きることとは、おそらくそうした「想定内」を呑みこむことなのだ。
 そこまで考えが進んで、ふと気づくと、お力の背後には一葉がいた。彼女は極貧の中、年頃なのに結婚もせず、戸主として一家を支えるために、小説で身を立てようとした。当時としては世間のものさしからあきらかにズレている。この生き方を選ぶ。貫いてみせる。結果、お力のような、人から見れば非業の最期は覚悟の上だ。この作品は、樋口一葉の作家としての決意表明なのだと思う。

コラム一覧へ