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安田雅弘演出ノート

ドン・ジュアン/2014.1

安田雅弘(2014.1)

 たかだか一年ほどなのに、もうずっと、この作品のことばかり考えているような気がする。「ドン・ジュアン」であり、モリエールである。初めての作家との手合わせは、例外なく、てこずる。
 当然ながら舞台というものは、戯曲を読んでイメージするようにはならない。というか、読んで舞台の最終形が見えるほど、私は熟達していない。もし見えるようになったら、稽古は面白くなくなるだろう。商売としてはそちらの方がいいのかもしれないが、クリエイティブな喜びからはほど遠い。
 戯曲のそれぞれの部分は、俳優が語るとどのように見えてくるものなのか? その中でどれを正解とすることが、この作品の内包している意思に沿うことにつながるのか? しつこく読み合せをし、思いつきも含めアイデアを出してシーンを作り直す。そして考える。同じところをぐるぐる回っているような気分になり、毎度のこととはいえ、その作品を選んだ自分を呪う。おそらくこうした作業の果てにしか、納得いく舞台など現出しない。わかってはいるものの、時間がかかる。

 ドン・ジュアンは、何も信じない男である。かつては何かを信じていたのかもしれない。信じようとしたことだってあったろう。けれども、おそらくさまざまな失望を経て、徐々にいろいろなことが信じられなくなり、あるいは信じることが厭になって、最終的には、何も信じないということが唯一の信念になっていく。人間が好きで好きでたまらないくせに、信じられなくなっていく。現代のわれわれも時々襲われるそうした気分を、人格化した物語である。
 彼は敵を探している。翻って考えれば、自分の信じているものを求めて旅しているのである。けれども、敵というものは、信じるものがあるからこそ見つかるのだ。何も信じない者には、やがてすべてが敵になってしまう。破格で大胆なようでいて、さびしい。ドン・ジュアンの周りから、人はどんどん去っていく。読めば読むほど、なぜか「死」というものが、におってくるような作品に思える。
 もしやこれ、モリエールの自画像なのではないか、という思いが、稽古中に頭をよぎった。作品初演の1665年2月当時、彼は43歳である。岩波文庫の鈴木力衛の解説によれば、

 『タルチュフ』から『ドン・ジュアン』を経て『孤客』にいたる三年間は作家としてのモリエールが一番脂の乗りきった時代であるが、その半面、その個人的な生活においてはきわめて波瀾の多い苦闘の時期であった。数年前に結婚した一座の若い女優アルマンド・ベジャールとの夫婦生活は不和とまで行かなくともとかく折合いが悪く、またパリへ帰って以来、作者兼俳優兼座長としてたゆみなく活躍をつづけたせいか、もともと頑丈でないかれの健康はいちじるしく害われた。そこへもってきて思いもかけぬ『タルチュフ』の禁令。ひきつづき(1664年―安田注)六月の初めには、無料入場者を拒否したために劇場の入口で流血沙汰が起こり、一座は多額の見舞金を払わされる。九月にはモリエールの親友ラ・モット・ル・ヴェイエルが死に、二か月後の十一月四日には喜劇役者として一座で重きを成していたデュ・パルクが長逝する。さらにその六か月後にはアルマンドとのあいだに生まれた長男プティ・ルイがこの世を去っている。

 この戯曲を最初に読んだ時は、ドン・ジュアンを「放蕩の果てに神罰で死んだ男」にすぎないと感じていたが、そんな単純な物語ではなかったようだ、と今は思う。作者の生涯と作品を結びつけることは、必ずしも説得力のある想像につながらない。けれども、今回に限っていえば、作品に「死」がにおい立つのももっともではないかと思う。この時期モリエールが、世の中のありとあらゆるものを信じられない心境に陥っていたとして、無理もなかろうと思うのである。
 劇団の経済的窮状を救うべく、モリエールは『ドン・ジュアン』を書き上げ上演し、芝居は大入りになる。彼の分身とも言える主人公が、最後に神罰に当るのを見て、やんやの喝采を送る観客に、彼は何を感じただろう。『タルチュフ』とほぼ同じ理由から、この作品もわずか15回の上演ののち、上演中止に追い込まれる。彼の生存中、『ドン・ジュアン』が再演されることはなかった。

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