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安田雅弘演出ノート

お茶とおんな[山の手・女祭り・男祭り]/2009.11

安田雅弘(2009.11)

 チラシにさえ書いていないのだから、お客さまは知るよしもないのだが、おかげさまで山の手事情社は今年創立25周年を迎えた。それに、これは劇団員でさえ気づいていないと思うが、当劇団の演技様式である《四畳半》も10周年である。創立20周年のときには、分不相応に立派なパンフレットを作ったり、今までの人気作品三本立て公演をやって大騒ぎしたのに、今年はやらないのか。
 やりません。
 というか、「もうそこじゃないだろ」ということで、少し足をのばしてルーマニアの演劇祭に参加したり、この「女祭り」「男祭り」である。
 私たちが《四畳半》に出会うまでの15年間、何をしてきたのかといえば、どのようにすれば台本を使わずに面白い芝居が作れるのか、ということに取り組んでいたのであった。ズボラな私がやろうというのであるから、当然「俳優が考えるんだよ、ぜんぶ」というのが実情で、15年の間に積もり積もって、今ではエラそうにワークショップなどを開くネタになっている《山の手メソッド》がその成果なのである。
 今年はしばらくぶりに、その伝家の宝?刀《山の手メソッド》を抜いて、まず春に
『drill』で肩ならしというか、サビを落とし、秋に『山の手・女祭り・男祭り』で新たな作風に挑んでみようというのである。中身は「ほとんどぜんぶ」と言っていいと思うが、俳優たちが考えた。私は「もっと考えるんだよ」とふてていた。演出家として25年間、ふてくされ方だけは磨かれたなぁ。と語ってどうする。
 演劇の魅力とは文学性と身体性の融合にあると最近では思っている。文学性とは「人間て何て複雑で、時に高邁なんだろう」ということがよくわかる、ということである。今までにも『jam』や『ぴん』など、《山の手メソッド》だけで作ってきた作品はあったのだが、今回はそれらに文学性が加味された。一見地味だが、新たな展開なのである。もちろんすべて俳優が考えたついたことではあるのだが…。簡単に成り立ちそうで、実は俳優に蓄積がなければこのような舞台は作れない。25年やってみるものだ、と思ったりもする。

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