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コラム

安田雅弘演出ノート

drill/2009.3

安田雅弘(2009.3)

 珍しく、現代の日本を描いてみようと思った。
 この一年間、私が演出した作品を考えてみると、『摂州合邦辻(せっしゅうがっぽうがつじ)』『ロミオとジュリエット』『道成寺』『走れメロス』と、文学性が保証された古典テキストばかりである。この一年に限らず、十年間ほど、そのような作劇を続けてきた。それは《四畳半》という現代日本にとどまらず、広く世界的に通用する普遍的な演技スタイルを確立したいと考えてきたからであり、おそらく今後も私の作業の大きなテーマになっていくことだろう。
 十年前、《四畳半》の実験に取り組むと決めた時、親しい観客ばかりでなく、スタッフや俳優もその決断を咎める向きが強かった。「無謀だ」というのである。むろん私とて勝算があったわけではない。ただ、ものを作る人間には、正しいか正しくないかを超えた予感に従わなければならない時機があり、その時点ではそうした「予感」に劇団をゆだねないと、舞台芸術としての創作活動を続けていくことができないのではないかという明確な危機感があった。
 幸い実験は、ささやかではあるが、ある程度の成果を出し始め、十年たった今でも、さらなるレベルアップを模索したいという意欲は失われずにいる。しかし、好運の背後には、それまで十五年間蓄積してきた《山の手メソッド》という財産があったことを素直に認めなければならない。思いつくありとあらゆる方法を駆使して、舞台上に人間の魅力をどのように引き出すか、を格闘したノウハウの集積なくして、「無謀な実験」は一歩も前には進まなかったに違いない。《四畳半》による作品製作を進める傍らで、《山の手メソッド》による訓練は怠らないよう心がけてきたつもりである。
 しかし、実験に共感する若い俳優が次々と入ってくるなか、《四畳半》の公演を続けていくだけでは、その訓練が不十分になりがちであるという懸念もまたぬぐえなかった。普遍性をもったスタイルを打ち立てるには、まず自分たちが生活している社会を生き生きと写しとる力量が俳優にもスタッフにも求められる。久しぶりに、具体的には十五年ぶりに《山の手メソッド》だけを使って芝居を作ろうと思ったのはそんな理由からである。

 『drill』の製作は、現在我々が使っている言語や身体、すなわち日本語がどのあたりにあるのかを探る作業であり、同時に今の日本社会の時代的気分とでもいうべきものを舞台上に定着させる作業であった。若い俳優にとってはとまどいの多い稽古場だったと思うし、ベテランにとっては改めて《四畳半》の実験を進めていく根拠を確認する時間になったことだろう。
 時代的気分を見据えるために、すべてを受け入れる部屋、巨大な母性と言い換えてもいい場所を設定した。そこに俳優から持ち込まれた厖大な材料を投げ込んで、何が見えてくるのかを注意深く観察しようと考えたのだ。結果、現れた巨大な閉塞感は、ある程度予想したものであった。けれども不思議なことに、私はその混沌の中に、大きな希望をも感じ取ることができたのである。私たちの棲む社会は外見上の閉塞とは裏腹に、次なる風穴を求めて、猛烈に運動しているのではないか。そのエネルギーは、いずれ我々の目に見える形になって顕われ出てくるに違いない、と強く感じることができたのである。

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