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コラム

安田雅弘演出ノート

摂州合邦辻[YAMANOTE NIPPON]/2007.10

安田雅弘(2007.10)

養鶏所と家庭劇

 今まで取り組んだ和モノは、すべて台本の最初から最後まで通しで上演してきた。全体性にこそ作品の魅力があると考えたからである。今回は「下の巻の切」、後半のクライマックスシーンだけを取り上げた。全体の流れやストーリーよりも、こんな場面にグッとくる日本人の精神性に注目したかったのである。戯曲から見えてくる「世界が女性の腹の中に秘蔵されている状況」や「キッパリとした女たちと、どうにもだらしない男たち」から着想して、「子宮に恐怖をいだき、無意識のうちに裂きたいと願っている男性社会」を抒情的に描きたいと考えた。
 玉手御前は封建社会の産物で、その社会に犬のように従順なのが合邦である。物語の背後で、合邦の分身ともいえる犬たちが、養鶏所のような場所でたくさんの玉手御前を育てていたらと想像した。大量生産された玉手たちは、『摂州合邦辻』の悲劇をあちこちで引き起こし、繰り返すに違いない。封建時代に限らず、社会体制というものは、悲劇を生み出すシステムとして機能するものなのである。数多くの戯曲がそれを教えてくれる。
 また、芝居作りの過程で、妄想の自分に手紙を書き続ける、ひきこもった娘と、寂しさから始めたはずが、のめりこんでしまったダンスに狂う母親と、仕事や家族への愛憎に整理がつかず、性欲のおもむくまま女を漁る父親という家庭が見えてきた。その風景が稽古場で突如として現出したときには、現代に置き換えるとこんな芝居になるのかと意外に思う半面、妙に納得して笑ってしまった。つまり社会のひずみが、ある家庭に集束し、崩壊させてしまう物語でもあったのである。
 舞台は上記二つの想像を軸に、私なりの『摂州合邦辻』を、演劇的な方法で記述したものである。
 「玉手御前」が命がけで守ろうとした「忠誠」や「義理」は、「忠臣蔵」の大石内蔵助のように、武士ならば当然担わなければならない美学であった。それを二十歳そこそこの娘が引き受けたばかりか、身を挺してやりきっちゃったところに、この作品のエロティシズムがある。大の男もたじたじなのだ。また、「美男の顔がただれ」、それが「女の肝臓の生き血を呑んで治る」なんて、スッポンじゃあるまいし、かなりグロテスクな話である。『摂州合邦辻』はエロ・グロで人気を博した。
 文楽や歌舞伎を今見ると、そのあたりはとてもおとなしい演出に見える。江戸時代から変わっていないのだとすれば、むしろ現代人の、いや私の感性が鈍感なのだろう。想像力豊かな私たちの先祖には、おそらくあれで十分エロ・グロだったのである。侮りがたい、誇るべき自らの古典に、日本人が学ぶべき点は果てしなくある。

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