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コラム

演出ノート

王女イヴォナ[YAMANOTE TRIP]/2006.12

ピョトル・チェシラック(2006.12)

 社会の深刻な問題に滑稽さという仮面をかぶせたもの、それがゴンブロヴィチの作品である。人間は社会の歯車の一部に過ぎず、その中で俳優のように与えられた役割を演じる存在だ。社会の中で自らの立場を守るため、威厳を保った仮面の下に、恐れと弱さを隠しているのである。しかしそれは、イヴォナのような人間があらわれるまでの話だ。彼女の自然さと異質性が、我々の仮面をはがしてしまう。果たして我々に、その準備はできているだろうか。本当の姿をさらけ出したくないあまりに、恐ろしい行為に出てしまうのではないだろうか。ヴィトルト・ゴンブロヴィチの作品「王女イヴォナ」は我々にそう問いかけてくる。
 日本の俳優たちは、様式的な演技の達人だ。これを挑発的な、諸諜に富んだ、無政府的で、不条理なポーランド精神で、さらにいきいきとさせることができると私は考えている。不条理性は、ポーランド演劇においては長い歴史がある。これは歴史と政治に翻弄されてきたわが国民が、抱かざるをえなかった畏怖というものに対するリアクションなのだ。日本の観客がこの「王女イヴォナ」の試演を見て、そうしたことを感じ取ってくれればと願っている。

 

安田雅弘(2006.12)

「王女イヴォナ」との出会い

 2年前の6月、私は京都のプロデューサー・遠藤寿美子女史に導かれる形でポーランドを訪れた。女史は山の手事情社にポーランド公演を勧めてくれたのだが、企画半ばで急逝され、その供養も兼ねてかの地を尋ねる気になったのである。到着するまでは何のあてもない旅だったが、遠藤さんの残してくれた人脈は堅固で、コーディネーター・松崎女史に出会い、その縁でドラマ劇場を紹介されるにいたった。街はゴンブロヴィチ生誕100年とのことで、関連した舞台作品が多く、その幾つかに接することができた。思いがけないスピードで事態は展開し、昨年10月に私たちは「オイディプス@Tokyo」をワルシャワとクラクフで公演することになる。その折、ドラマ劇場の「パミエントニック」を見る機会を得た。私が見たゴンブロヴィッチ作品の中では出色の出来で、俳優の動きやせりふ回しに、《四畳半》とは全く違う、ヨーロッパの一つの様式を見たように感じた。芸術監督として多忙な日々を送るチェシラック氏に、無理なお願いをして、今回の試演は実現した。舞台で登場人物たちはイヴォナと劇的な出会いをする。私にとって今回の試演は別の意味で、人間の出会いの数奇さを劇的に感じる機会となった。

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