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安田雅弘演出ノート

ファウスト ~悲劇第一部~[YAMANOTE TRIP]/2006.11

安田雅弘(2006.11)

 ドイツを代表する文豪として、ゲーテの名前を知らない日本人は少ないと思う。しかし、彼が文字通り生涯をかけた渾身の作品である「ファウスト」の実際の舞台に触れることは、まれだ。私自身ほとんど見たことがない。たとえばシェイクスピアやチェーホフと比べるとその違いは歴然とする。小説ならばともかく、「ファウスト」は戯曲のかたちで書かれた作品なのである。理由はいくつか考えられるが、端的に言えば「長くて複雑」という印象があるからではないだろうか。
 私も今まで何度か作品化を検討したことはあったものの、そのたびに断念してきた。第一に長い。全体も長いが、一つ一つのせりふが長い。理由がはっきりしなければ俳優は覚える気がしないだろう。詩形を
駆使している表現が多いらしく、翻訳にその苦労がにじんでいて、描かれている世界が、およそ私たち現代日本人には縁のないもののように思われる。つまり言葉が遠すぎるのである。登場人物が多く、また注釈も多数あって、理解する上で前提となる知識が追いつかない。「諷刺屋クセーニエン」と聞いてぴんと来る人が何人いるだろうか。結果、上演機会は失われ、日本の演劇界ではなじみの薄い作品になってきたのではないかと推察する。

 それでは、今回なぜ上演しようと思ったかといえば、さしたる理由はない。二年ほど前に改めて目を通した際、ムカムガしたからである。どうしていつもこの作品を断念してしまうのだろうと思ったからである。予感というのはその程度のものでしかない。身体の奥のどこかで、やりたいと思うているのではないかしら、と感じたからだ。こうすればできるとか、ここが面白いとか、明確な何かがあったわけではない。もっとも、それは今回に限ったことでもない。
 極力シンプルに考えることにした。ヒントは作品の冒頭「開演前」というシーン(池内紀訳による。他の翻訳では「前狂言」「舞台での前狂言」「舞台の前曲」など)に書かれていた。道化「人間のいとなみのイキ
のいいところをづかみとる。いとなみってものは、ごく身近にあっても、なかなか気づかぬもので、つかみ方しだいで、おもしろくもなろうじゃないか」。
 「ファウスト 第一部」は「人生とは恋愛である」ということが描かれている。おそらくそれだけではないだろう。しかし、そのように考えることで整理がつく。長いせりふは短くできる。詩の形で書かれているというのならシェイクスピアだってそうだし、内容から言えぱチェーホフの話の方がはるかに複雑だ。ありふれた悲恋の物語である。しかし、人生に絶望した博学な学者を若返らせ、悪魔メフィストフェレスをお供にするという仕掛にゲーテの才能を感じる。永遠の恋愛なんてない。そんなことはわかっている。恋愛はとても残酷なものを孕んでいる。それもわかっていて、人はなお、それに強く惹かれる。言葉にしてしまえばそれだけのことだが、この戯曲は恋愛を通じて、人生の意味を深く味わわせてくれると今では感じている。

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