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安田雅弘演出ノート

青い鳥[YAMANOTE TRIP]/2006.11

安田雅弘(2006.11)

 「青い鳥」はちょうどヨーロッパが大量生産大量消費の社会に突入した時期に、子供向けの戯曲として書かれた。金に走り、物欲に追われる人々を見て、メーテルリンクはこの作品を着想したと言われる。人間にとって大事なものが見過ごされているという危機感があったのだろう。「思い出の国」をはじめ、その後チルチルミチルがへめぐる「夜の御殿」「森」「墓場」「幸福の花園」「未来の王国」といった世界は、大量生産を実現した科学技術がどんなに進歩しても、人間には訪れることのできない世界である。そこで出会うモノたちだけでなく、一緒に旅をする犬、猫、パン、火、光との対話も現実においては不可能である。つまりこの作品は対話不能なモノとの対話を描いた作品なのである。
 そもそも不可能な内容を描こうとしているので、せりふはどうしても説明過多で、説教くさい。子供向けでなければおそらく書かれなかった作品であろう。しかし戯曲を注意深く読むと、ただ子供向けということだけでは収まらない、いじわるな部分も見うけられる。特に魔女や光が子供たちに投げかける嘘とも思える発言の数々には、メーテルリンクの心底を覗くような思いがする。
 一般に「青い鳥」は、翻訳者である堀口大學も書いているように--万人のあこがれる幸福は、遠いところにさがしても無駄、むしろそれはてんでの日常生活の中にこそさがすべきだ--という主旨の作品だと
思われている。しかし、わたしはそんな教訓を引き出したくてこの作品を選んだわけではない。「群盲」や「闖入者」などメーテルリンクの他の戯曲を読むと、彼が「青い鳥」以外の作品では、人間どうしの対話の不可能性を、絶望的な視点から描いているのがわかる。
 今回はそちらから、すなわち人間に世界との対話は不可能であるという視点から「青い鳥」を舞台化できないかと考えた。子供の頃感じていたように、世界は常に唐突で恐ろしいものとして存在している、はずだ。しかしわたしたちは成長とともに、文明や文化のカを借りて、世界がそのようではないと思いこんでいるだけのことではあるまいか。メーテルリンクが作品にこめた思いの一方には、人間が周囲のものと対話することは可能であるという考え方や、それを可能に見せている文明というものに対する強烈な批判があるように思う。尊敬するポーランドのSF作家スタニスワフ・レムの作品「ソラリスの陽のもとに」のソラリスのような、人間の理解を超えた惑星青い烏が、人類へのクリスマスプレゼントとして、チルチルミチル兄妹の上を通過する。そんな発想から芝居づくりは始まった。

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