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コラム

安田雅弘演出ノート

ぴん[Yamanote Fair 2006]/2006.1

安田雅弘(2006.1)

《ものまね》稽古縁起

 千秋楽はとても恐ろしいものであった。公演が終了し、バラシと呼ばれる片付けが終ると、アトリエ(稽古場)で打上げが始まる。夜を徹しての酒盛りである。なごやかに酒をくみかわしているうちはいいが、やがてギターを持った伴奏者とともに、ビール瓶をマイク代わりに司会者が出てくると、緊張はピークに達する。わざわざそのために舞台がしつらえられ、照明が何灯も吊られ、状況に応じてついたり消えたりする。全員が注視する中、司会者に呼ばれた者が、舞台に上がっていく。勇ましく楽しげに舞台に向かう者はまれで、いやむしろ、余裕をもって舞台に上がれるのは、すでに認知を受けた芸を持つ先輩諸氏で、若手の多くは刑場に曳かれていく罪人のようであった。歌を唄う者、一発芸をする者、困って立ち尽くしてしまう者。いずれにせよ、場が持たないと判断されるや照明は静かに消される。そして司会者は次の名を呼ぶ。照明を消された者は、敗北感に打ちひしがれて席に戻る。
 私が大学のころ所属していたゲキケン(演劇研究会)とは、そういう場所であった。20年以上昔のことだが、今でもなまなましく思い出すことができる。アサイちゃんと呼ばれる先輩の芸は、沢田研二の「カサブランカ・ダンディー」を歌いながら、なぜか涙を流すという理不尽で、もの凄いものであったし、コージさんは何人ものベテラン女優をコーラスに引き連れ、寸劇入りで北島三郎の「与作」を唄い、喝采をあびた。私たち新人は、そうした芸を見ながら、あるいは喜ぶ先輩たちを目の当たりにして、不条理演劇の姿とか、俳優の集中力といったことを理屈ぬきで感じ取っていった。ゲキケンには年間に8回ほど公演があり、千秋楽のたびに私は憂鬱になった。楽日が近づくとそわそわし、ネタバレしないよう仲間に隠れて練習したりした。
 大学6年のとき、このアトリエの打上げは突然なくなった。というより、私がなくした。そのころ雨後のたけのこのように開店した居酒屋での打ち上げの方が、酒も食い物も豊富だったからである。何よりアトリエ打上げに飽きていた。今どきギターにビール瓶でもなかろう、と思った。反対する者もいなかった。しばらくたって、歌も芸もないのに、のほほんとしている若手を見て、自分のミスに気づくことになる。が、後の祭りだった。もう戻れない。ひょっとすると本番よりもはるかに勉強になるあの時間を私たちは失ってしまったのだ。冗談ではなく、それを考えると夜も眠れなかった。あの空間こそ、自分にとって何物にも代えがたい演劇的栄養だったのではないか。それを新人に引き継げない。思案の結果、稽古の時間にそれを再現できないものかと考えた。酒もないし、千秋楽の解放感もない。こんどは反対だらけだった。こうして《ものまね》稽古は、いやいや始まった。以来15年、稽古は変遷をとげ、当初まったく想像もしなかったような姿になっている。しかし、稽古のたびに私の胸に去来するのは、なつかしくも苦いあのアトリエの喧騒なのである。

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