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コラム

安田雅弘演出ノート

タイタス・アンドロニカス[Yamanote Fair 2006]/2006.1

安田雅弘(2006.1)

~テロリスト誕生の物語~

 今回「タイタス・アンドロニカス」を作ろうと考えたのは、このテキストがテロリストの誕生過程を鮮烈に描いた現代劇だと感じたからである。もちろんシェイクスピアはそんなことを考えてこの作品を書いたわけではない。むしろ「タイタス・アンドロニカス」は、長いこと失敗作とされてきた。ただただ内容が残酷だという理由で、シェイクスピア作品ではないと思われていた時期さえある。
 物語は、ローマの大将軍タイタスがローマの領土拡張のため、周辺の部族と戦い、凱旋するところから始まる。彼に悪意はない。少なくともその自覚はない。ローマを代表し、その正義を貫くと同時に、自国の安定と利益を図るためには必要で重要な仕事ととらえていたに違いない。それはエネルギー資源確保のためイラクやチェチェンと戦うアメリカやロシアの姿とも重なる。アメリカやロシアが悪いと言いたいのではない。国家の運動生理というものはどうやらそう働くらしい。
 この作品に展開を与えるのは、タイタスに息子を殺されたことを恨みに思った、捕虜であるゴートの女王タモーラが、凱旋のその日のうちに、ローマの皇后になるところにある。しかも当のローマ皇帝はタイタスによってその直前に指名されたばかりなのである。しかしこの瞬間、タイタスはローマの無自覚な加害者から、痛みにあふれた被害者へと一転する。彼はおそらく生まれて初めて国家の運動生理というものに、生身の一個体としてさらされることになる。そしてやがて自国ローマに弓を引くテロリストになっていくのだ。
 「テロリズムこそは、現代においてユートピアを占拠している唯一の教団なのである」
 創作過程でずっと私の頭にあったのは、ドイツの劇作家ハイナー・ミュラーのこの言葉であった。ユートピアをイメージすることは私たちには困難である。一体誰のために、何のためにユートピアを建設しなければならないのか。おそらく現代においてそれが可能なのは、近代以降の国家システムという概念と、肉体で衝突したことがある者だけではないだろうか。国家の運動生理に引きずられ、自分自身も含め、身内や親しい者を傷つけられ殺されたと感じた者がテロリストの資格を手にする。
 またその際、ムーア人アーロンに象徴されるような、暴力の快感を人生の目的とする人間の本性がむきだしになることも避けられない。皮肉なことに、物語の終わりで新たなローマ皇帝となるのは、アーロンにその本性を目覚めさせられたタイタスの長男リューシアスなのである。
 「タイタス・アンドロニカス」が私たちにつきつけるのは、私たちが国家と呼ばれる概念を超える何ものかを果たしてイメージし構築することができるのか、といった問題である。またその際人間の本性をどれだけ冷徹に見据えることができるのかといったきわめて現代的な問題でもある。それから目をそらしたところでテロリズムを論じても意味がないと私は感じている。

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