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コラム

安田雅弘演出ノート

牡丹燈籠[Yamanote Fair 2006]/2006.1

安田雅弘(2006.1)

 登場人物は多い。とにかく多い。おぼえたと思ったら、すぐに死んでしまったり、それきり出なかったりする。でも、それさえクリアすれば、話は難しくない。恋愛あり、仇討あり、むごたらしい殺人あり、幽霊まで出てくる。ってもともと怪談だ。円朝は23才でこれを書いたというのだから、本当に驚きである。
 それにしても、と大方のお客様は思うだろう。今なぜこの作品をやるのか。こんな寒いのに納涼怪談とは…という向きには本当に申し訳ない。暖冬だと聞いてました。ま、それは置いとくとして、明治時代に書かれた落語を現代演劇にする意味は何か。
 私たちは《四畳半》という演技スタイルを模索している。その完成度を高めるために徒党を組んでいると言っても過言ではない。スタイルを洗練するには、舞台を古今東西のさまざまな言葉にさらさなければならない。ま、もちろん日本語でですが。したがってギリシア悲劇もやれば、シェイクスピアもやる。「道成寺」のような古典もやれば、落語原作にも取り組みたいということなのである。
 それだけではない。あえて古い作品を扱うのは、その中に現代的な、あるいは普遍的な問題を見つけることができるからである。ひょっとすると現代の作家が書いた作品よりも、より深くことの真相に迫ることができる。ことの真相というのは、この場合「人間とは何か」とか「日本人て何だ」という問題になる。
 怪談怪談といわれるほど「牡丹燈籠」に幽霊は出てこない。かなり長い物語の中で二箇所だけだ。円朝はどうやら「私たちは怪談に身を浸しながら生きているよ」ということが言いたかったのではないか。ここに描かれている社会と、私たちの暮らす社会は、別世界のようだが本質的には変わらない。先日も、少女が母親に毒を盛り、弱っていく様子を毎日ブログに発表するという事件があった。私たちの暮らす、一見何事もない社会。けれども一皮むけば、人間とは、自分も含めてずいぶんとグロテスクな存在だということに気づかざるをえない。私たちはもっぱら猟奇的な事件の報道などを通じてそれを感じるようになっているが、本来そうしたことを気づかせたり、考えさせるのは、文化が担う仕事だと思う。ま、現代日本では文化が正常に機能していないってことか。
 演劇にはこの世にはない魂を呼んでくるという役割がある。それが古典作品を選ぶもう一つの理由だ。俳優は、自分が演じる役の人物の魂をさまざまな材料をもとに呼び出す。私はといえば、不遜のそしりは免れないと思いつつも、舞台に円朝を呼び出したいと考えた。ちと大きめの四畳半の座布団で、扇子とてぬぐいだけを道具に、身体一つの俳優たちが動き、語りしているうちに、舞台上に円朝師匠が浮かび上がらないものか。澄んで高い空にそれを祈ったりしている。

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