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安田雅弘演出ノート

銀河鉄道の夜/2005.6

安田雅弘(2005.6)

 宮沢賢治の作品や言葉には、現代社会がどのようにあるべきかについての深い考察がひそんでいる。私たち現代日本人は、物質的な豊かさとはうらはらに、精神的な安定や豊かさを感じにくくなっている。ニュースを見れば、海外では大きな災害や紛争がとどまることなく、国内に目を転じても、かつては考えられなかったような陰惨な事件が数多くとびこんでくる。「何かがおかしい」「私たちの社会はどこか病んでいるのではないか」。これは今の時代を生きる多くの人が感じている危機感であり、実感ではないだろうか。「命」や「魂」について、「希望」や「未来」について、すなわち「私たちの明日」について、一世紀前に「ほんとうの豊かさ」を希求していたのが宮沢賢治である。
 宮沢賢治の生きていた時代、「機械」は「希望」や「未来」と同じ意味をもっていた。当時「機械」への信仰を足がかりにロシア革命が起こったことからも、それがいかに輝いたイメージをもっていたかがわかる。やがて「機械」は「兵器」となり、人類全体をまきこんだ大きな戦争がおこり、数多くの犠牲者が出る。また戦後、しゃにむに物質的な豊かさを追求した結果、日本では公害をはじめとする深刻な環境破壊が問題となり「機械」はともすれば「未来」や「希望」とは逆のイメージを持たされてしまう。「銀河鉄道の夜」は人類がまだ「機械」に素朴な「希望」を感じ、「未来」を託していた時代の物語である。宮沢賢治はその「機械」に、さらに人間の「生」と「死」をつなぐ連絡通路を発見しようとした。当時最新の科学技術の知識を動員して描かれた祈りが「銀河鉄道の夜」なのである。
 いや、祈りというより、これは宮沢賢治の思想そのものなのではないか。そう思ったりもする。童話と呼ばれるように、彼の作品は子供向けに書かれたと思われがちだが、「銀河鉄道の夜」に込められた思想は、子供が読んで、簡単に理解できるようなものではない。作品の中に触れられている考えに従えば、人類の世界観が進化すれば、やがて私たちは「銀河」に彼が想像したような世界を発見することになるかもしれないのだ。しかし、それは正面から語るにはずいぶんと荒唐無稽な内容である。そこで宮沢賢治は、ニーチェがツァラトゥストラという人格を設定して彼の思想を寓話的に語ったように、自身の思想を「銀河鉄道の夜」という寓話にまとめたのではないか。そしてその世界の発見を託したい子供たちに向けた童話として発表したのではないかとも思えてくるのである。

 「銀河鉄道」はまだ走っている。
 今回、私はそのような仮説のもとに、芝居作りに取り組むことにした。それはおそらくどの時代にあっても見えづらく、走っていることを確認しにくいものであるに違いない。どうやらそれは力強くきらびやかな、時代を牽引するようなものではなく、私たちの人生がそうであるように、地味でさびしく哀しい乗り物である。「銀河鉄道」の動力は、人間が理想を追い求めるエネルギーである。理想を追求することは、作品に描かれているように、孤独を抱きしめ、血みどろになることを引き受ける覚悟を必要とする。現代社会に希望が見出しにくいのは、私たちの理想を追い求めるエネルギーが弱っているからにほかならない。
 現代にあって「銀河鉄道」がもし、もはや人間には動かすことのできないものになってしまったのであれば、宮沢賢治の愛した動物や植物や鉱物に宿る精霊(スピリット)たちに動かしてもらおう。それが今回のコンセプトとなった。動いている「銀河鉄道」でジョバンニはカムパネルラと出会い、そして別れる。人生は極論すれば、出会いと別れに尽きる。その意味を舞台上で生理的に体験することが、演劇人である私にとって、宮沢賢治と出会うことなのだと今は考えている。

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