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安田雅弘演出ノート

夏の夜の夢[Yamanote7481]/2004.10

安田雅弘(2004.10)

 「夏の夜の夢」は日本ではとてもポピュラーなシェイクスピア作品である。上演史をたどってみると、明治45年に帝国劇場で在留外人素人劇団が原語上演したのを皮切りに、昭和3年に同じ帝国劇場で築地小劇場が坪内逍遥訳、小山内薫演出で公演をおこなったり、昭和8年に松竹少女歌劇部が歌舞伎座でレビューにして(ちなみにこの時のライサンダーはターキーこと水の江滝子である)発表したりと、なじみの深い作品である。その後も頻繁に上演され、ざっと計算して、年間何十本とわが国で上演されるシェイクスピア作品の五分の一とか六分の一が「夏の夜の夢」ということになる。
 この有名な幸福な喜劇を上演するに当たって、私がまず考えなければならなかったことは、作品の主な舞台となる森をどうとらえるかということだった。森は単に木々のしげった場所を意味しているわけではない。そこは、駆け落ちをする貴族の恋人たちが落ちあう場所であり、下町の職人たちが芝居の稽古をする場所であり、また妖精たちのすんでいる場所でもある。その森で恋人たちは妖精の勘違いから悪夢のような一晩をすごし、妖精のいたずらから職人たちの稽古は中断し、妖精の女王とロバに変身させられた職人が身をこがすような恋に落ちる。つまり普段ほとんど接触を持たない別個のコミュニティーのメンバーが融合する場所と考えられる。日本でそういう場所を探すと温泉場や銭湯ということになるのではないか、と発想した。
 英語のforest(=森)はラテン語のforisから発し、foreign(=外国)にもつうじるように、地理的な「外、外部」という意味をふくんでいる。混乱による逆転、また、逆転による混乱によって狂気の世界があちこちで発生するのが森の世界で、エネルギーに満ちた森の混沌を、みずみずしい人間存在の解放区ととらえ、狂気を否定形で規定したくないと考えた。というのも、この「狂気の沙汰」の結果.人間秩序の「内部」で膠着した状況が、一晩のあいだにみごとに解決してしまうからだ。
 また、つまるところ現代において、その「混沌」とは見る--見られるという相対的な価値観の中でしか存在できない私たちの姿ではないか、ということも考えられる。貴族は町人に、人間は妖精に、そして最後のシーンで職人芝居は貴族と妖精に見られている。逆説的に感じられるかもしれないが、私たち人間は見られることによってしか自分自身を見つめ直すことのできない生き物である。精神分析学の成果を待つまでもなく、私たちの心には巨大な混沌が横たわっている。演劇は有史以来、その混沌のすがたにちかづこうと格闘してきた芸術でもある。
 銭湯--のれん、ロッカー、冷蔵庫、あんま椅子、体重計、かご、おけ・・・、和服のような衣裳、ジャズ、蛍光灯の照明、性を入れ替えた配役、そして俳優の妙な所作。見なれない方には、すべてが一種異様に映るかもしれない。これらは、現代日本人である私が、シェイクスピアの世界に接近するためのもっとも切実な方法なのだ。演出とは「世界」の意味を見いだすこと、あるいは「世界」に意味を付加する作業である。「世界」とは、とりあえず舞台上の空間のことだが、「演劇は世界の鏡である」と私もまた、シェイクスピアのことばのように考えているので、つまるところ、私たちが生活している歴史空間のことである。したがって、一見単なる思いつきや、偶然にみえるさまざまな要素に意味をもたせるよう意図したつもりだし、すべてに意味がある。それらをいろいろに想像しながらごらんいただくのも、演劇の楽しみ方のひとつだと思う。

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