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安田雅弘演出ノート

オイディプス@Tokyo[Yamanote7481]/2004.10

安田雅弘(2004.10)

 テバイの国に疫病がはやる。それを解決しようと国王オイディプスは行動を開始し、その過程で彼自身の出生の秘密が明らかになる。彼は父を殺し、母と交わって、子供まで産んでいた。次々と思いがけない事実が明らかになり、やがてショッキングな結末が訪れる。その構成の緻密さとうまさ。「オイディプス王」は現代の我々が読んでも十分に面白い。
 しかし、私が今回この作品をあらためて上演しようと思ったのは、そればかりでなく、台本の行間にきわめて現代的な問いかけが潜んでいると強く感じたからだ。先月ロシアの北オセチア共和国ベスランでチェチェンの武装勢力による学校占拠事件が起き、多くの犠牲者が出た。それに関連してプーチン大統領は興味深いコメントを出している。「テロはわが国の疫病である」と。
 同様のことは、アメリカのイラク侵攻や、止むことのないパレスチナ紛争を見ていても感じる。それらは「オイディプス王」という作品のテーマと二つの点で深く関わっている。一つは怒りと暴力の連鎖が国をほろぽし、人類滅亡を予感させる点だ。謎の解けない人間を殺すスフィンクス、スフィンクスを倒し、自らの父を殺したオイディプス、自分を殺すことになるという信託を恐れてオイディプスの足に鋲(びょう)を打ち込ん
だ父ライオス、事実が明らかになって自殺するイオカステ。それらの人々は怒りと暴力の当事者であると同時に犠牲者でもある。
 もう一つは、自分を見つめることの難しさである。オイディプスとは「腫れた足」を意味する。もし彼が自分の名の由来にもっと注意を払っていたら、そもそもこの物語は始まらなかったのではないか。はたから見れば、不思議に感じられることだが、それほど自分を見つめることは難しい。
 チェチェン人のテロにせよ、イラクやパレスチナでのできごとにせよ、それぞれの国民性の問題であるとか、話し合いで何とかならないかといった無責任なことはいくらでも思うし、言える。しかし私たちは当事者ではなく、当事者にそうした感覚はおそらくない。ひるがえって、日本人はどうなのか。私たちは自分を見つめていると言えるのか。その疑問が演出プランのきっかけである。
 自分の価値観を疑う。違った視線から世界を眺める。そのために、それまでの視界をふさぐ。オイディプスが目をえぐった意味はそこにある。それは彼が先刻罵倒した予言者と同じ、盲目になることであった。自分をみつめることは困難である。しかし、それでもなお人間は自分を見つめなければならない。演劇とは、どこまでも自分を見つめる方法と行為のことだと私は考えている。

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