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安田雅弘演出ノート

道成寺/2004.5

安田雅弘(2004.5)

 「道成寺」と聞いて、今の私に思い浮かぶのは、満開の桜だ。それは、今まさに散らんとしているが、まだひとひらたりとも散ってはいない。この心象風景に出てくる桜の花びらは黒い。それは黒い情念の花のように見える。恐怖、怒り、恨み、嫉妬、情欲や淫欲、生きていく上で感じる矛盾。日本人が宿してきた暗い情念のようなものが、つぼみとなって花を咲かせている。
 一般に昼間の桜は、はかなく華やかで、しかしどこかのんきである。まぬけといってはいいすぎかもしれないが、だからどうしたと、つっこみたくなるようなのどかな落ちつきをたたえている。それにくらべて夜桜は充実した妖しさで油断がない。昼間よりも生き生きとして見える。それはおそらく、夜の闇に花の色が映えるからではない。花の輪郭がはっきりするからでもない。闇に色があるとしたら、日本人にとってそれは桜色であることが沁み入るように了解されるからである。それゆえ桜の花は、闇の色であると私には感じられる。
 道成寺伝説には三つある。かみなが姫の「黒髪縁起」、安珍清姫の「鐘巻縁起」、白拍子が出てくる「鐘供養」である。謡曲『道成寺』、それから発展した歌舞伎の『京鹿子娘道成寺」は「鐘供養」を題材としている。おそらくこの「鐘供養」が、謡曲や歌舞伎の知名度とあいまって、一般的な「道成寺」のイメージになっているのではないか。
 この「鐘供養」伝説でも、むろん能や歌舞伎でも、主人公の白拍子は新しい鐘を引き落とす。その理由を作品は語っていないものの、普通に想像して、かつての恋人安珍が隠れていた鐘(といっても作り直したものなのだが)を見て清姫の怨霊である白拍子がかつての恨みを再燃させ、鐘を破壊したいと考えたとして、あながち間違いではあるまい。「思えばこの鐘うらめしや」である。
 私の心象風景における白拍子も鐘を引き落とすものの、その理由は少々異なっている。それは鐘に鳴ってほしくないのだ。ひとたび鐘が音を響かせれば、花は散ってしまう。黒い満開の桜を散らしてはいけない。白拍子花子あるいは清姫はそれを祈って鐘を引き落とす。私の「道成寺」において、満開の桜は永遠なのである。
 そんな風に考えてきて、そうか「道成寺」を作るということは、「花見」をさせることなのだと思うにいたった。レビューにしよう。もちろん本場フランスのものとは似ても似つかないものになるだろうが、次々とさまざまな花があらわれるように、黒い桜を咲かせる舞台にできないものだろうかと思った。
 「道成寺」は、私を含め、大半の日本人にとっては、何やら古い、縁の薄いものと受け取られがちな題材である。けれども「花見」が私たちにとって古びていないように、現代の「道成寺」もどこかにあるに違いない。

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