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安田雅弘演出ノート

タイタス・アンドロニカス/2015.11

感情のふるさと/安田雅弘

 『タイタス・アンドロニカス』はシェイクスピア初期の作品で、近頃ではさまざまな上演があるものの、長いこと失敗作だと思われていた。残酷すぎる、というだけの理由で、彼の作品ではないと思われていた時期さえある。

 物語の舞台はローマ帝国。
「ローマは一日にしてならず」
「すべての道はローマに通ず」
のローマである。
 いまのヨーロッパ、EUのもとであり、現在の私たちにも深い関連のある国だ。たとえば日本は法治国家だが、その原型はローマ帝国にある。

 ローマ帝国の将軍タイタス・アンドロニカスは、ゴート人との戦争に勝ち、ローマに凱旋する。当時、皇帝が空位であったため、民衆はタイタスに皇帝になるよう要望する。が、彼はそれを断り、前の皇帝の長男サターナイナスを指名する。
 そこまでは何の問題もないが、サターナイナスが連れてこられたばかりの捕虜であるゴートの女王タモーラを妻にしたことから、物語は大きく展開する。
 このタモーラはタイタスをひどくうらんでいた。こっぴどくやられたのであろう。息子も殺されている。そこで、愛人のアーロンや生き残った息子たちと共謀し、また皇后という立場を最大限に利用しながら、タイタスの一家を次々と罠にかけ、彼の家族を傷つけ、名誉を奪っていく。

 この戯曲には登場人物それぞれの感情がとてもわかりやすく描かれている。単純だからわかりやすいのではなく、複雑であるにもかかわらずよくわかる。すぐれた台本というのは、人間がとても複雑な感情を内包し、時に高潔にふるまう存在であることを、上演という限られた時間内で、端的にわからせてくれるものなのだ。

 今の日本は、閉塞しているとか、希望が持ちにくいとか言われる。その一つの原因として、自分の感情に自信が持ちにくくなっているということがあるのではないかと思う。
 どう考えても泣くべき場面なのに、悲しくならないし、涙が出ない。
 腹が立っているのに、どう怒っていいのかわからない。
 周りから見ていると、これは腹を立てるだろうという状況なのに、本人にその自覚がない。
 心と身体がアンバランスなのである。心と身体と社会のつながりがちぐはぐな気がする。

 人間や国と同じく、感情にも歴史があり、ふるさとがある。感情を成り立たせている根拠と言ってもいい。それがはっきりしていないと、感情に自信が持てない。精神的に徐々に病んでいくことにつながる。いまの日本はそういうところにあるような気がしてならない。

 古典演劇はその意味では、感情のふるさとそのものである。『タイタス・アンドロニカス』ももちろん例外でなく、私たちが日常生活ではめったに触れることのない、はげしく強い感情が、随所で炸裂する。
「ああ、これが私たちの感情のふるさとなんだ」
と思って、ご覧いただくのも一つかと思う。

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