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安田雅弘演出ノート

オイディプス王/2008.2

安田雅弘(2008.2)

 現代芸術の特徴は、創作者の意図にかかわりなく、芸術が存在する意味を作品が語ってしまうことにある。観客は『オイディプス王』の物語を追いつつ、同時にこの芝居が今上演される意味を求めてしまう。演劇が演劇を語る。私はその構造をメタ演劇と名づけている。

 『オイディプス王』を上演する意味とは何か。それはオイディプスの「魂」を現代に呼び出すことにほかならない。そんな「魂」が存在し、呼び出すことができるのか、という課題が西欧の先鋭的な舞台表現の現在的なテーマであるように思うが、日本では、少なくとも私の感覚ではそれは可能である。日本人は、能や文楽や歌舞伎といった演劇史の中で、舞台上に魂を呼び出す方法論すなわち「型」を修練してきた民族だからである。

 ではなぜ呼び出すのか。それがいったい何になるのか。一言でいえば、それは私たちが思い上がらないため、謙虚になるためである。目の前の日常に追われている人間に、つかのま違った時間を提供する。私たちはときどきそういう視点を持たないと、思い上がる。思い上がって、戦争をし、環境を過剰に破壊し、やがて自滅する。ギリシア悲劇は一貫してその考え方にもとづいて作られている。現代もギリシア時代と変わらない。演劇の力が十分であった時代を人類はまだ持っていないのである。

 オイディプスの「魂」を呼び出すために、私は女優に『オイディプス王』の世界を演じさせることにした。日本に住む女性の見る夢として『オイディプス王』を設定したのだ。彼女らに夢を見せる役割として男優は「運命」を演じる。「運命」とは、現在世界中に渦巻いている怒りと暴力の象徴である。日本人は一見、そうした怒りや暴力に無頓着であり、無関係であるかのような日常を送っている。その私たちに、すなわち女優たちに『オイディプス王』の物語が降臨する。それは悪夢という形をとるほかないと思っている。

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