14/01/23

ドン・ジュアン

『偶然か必然か』

ドン・ジュアンはロードムービーの様な戯曲です。

ドン・ジュアンとスガナレルは何処かにむかって歩いている。目的はよくわからない。
その道中起こる様々な出来事が物語になっています。

最初この戯曲を読んだ時、何が言いたいのかよく分かりませんでしたが
「ああ、こりゃダーツの旅なんだ。たまたまの出会いを戯曲化したものなのね。」
に落ち着きました。

私もたまに旅行にいくが、道中様々な人達と出会う。
トラブルに会う事もある、嫌な反面ワクワクする。
せっかくだからそこに何かしらの意味や運命を求めたがる。そうしないと自分である必然性が弱まるから。
ただ後々考えるとその出会いはただの偶然だった事がほとんど。
お決まりの文句「僕達が出会ったのは運命だったんだよ。」は「たまたまだったんだよ。」に鮮やかに変換出来る。

演劇だってそんな大したものじゃない。でもごくたまに人の運命を変える程の出会いがあります。
その様な偶然を皆さんに与える作品になりますよう。

劇場でお待ちしています。

川村岳

14/01/22

ドン・ジュアン

『開け、ごま!』

《四畳半》に苦戦している。

ご存知の方もいると思うが、これは山の手事情社独自の表現方法で、少しの動きだけでとても複雑な世界を表すことができる。そこに佇んでいるだけでその役の背景が見えてくるような身体の動きが理想だ。とても美しい。

ただ動きの型が決まっているわけではないので、自分で探さなきゃいけない。どれがありでなしか? 決まっているのは「動きを凝縮する」 こと。台詞を手掛かりにして、動作を考案する。と、ここで問題が生じる。人間はある感情に身体が反応して動こうとするのだが、それを忠実になぞると、リアリズムの域を越えない。そしてとてもこじんまりしてしまう。よくある「何か考えているのかもしれないが、見えてこない」 状態だ。

思い切って身体を動かす。しかしタイミングが合わなかったりテンションが低いと蝉の抜け殻みたいに、空っぽになってしまう。「形ばかりが目について何もない」 事態に。

知らない間に、頭は固定概念に縛られていく。腰は屈めるべき、声は張るべきと、やり方の幅を狭めてしまっている。稽古の様子を記録したビデオを見ても、他の人はもっと身体を使ってのびのびとやっているように見える。次回はもっと大胆に動きをかえてみよう。と思ったその翌日、見事に打ち砕かれた。

「そんなにちょこまか動くな。」

私の役は、瀕死の貧者。そりゃあそうだ、大事なことを忘れていた。いや忘れていた訳ではないのだが… 言い訳はやめよう。全身にもっと圧をかけ、でも力まない状態を探す。よし、今度はあそこをあーして… でまた玉砕。

一向に扉は開かない。
どうやら呪文が違うらしい。
もしかしたら扉の位置が違うのかもしれない。早くしないと幕が開く!
いっそダイナマイトで爆破したいが、そんな便利なものはない。足掻くしかない、足掻くしかないんだ。

三井穂高






14/01/21

ドン・ジュアン

『めざめよわたしの野性』

ドン・ジュアンは実在の人物だったようで、相当迷惑な奴だったのではないかと思われる。
こんな男が近くにいたらたまらない。
自分の欲望を遂げるためなら平気で人を殺し、
女を口説いては捨て、
神を冒涜し、
借金は踏み倒し、
父親には悪態をつき、
捨てた女の兄弟が追ってきたら、せめて逃げたら?と思うけど
真っ向から「あなたの妹とは一緒になれない」と宣言する。

でもやはり、悪人は、遠くから眺めるぶんにはおもしろい。
人間って、ここまでいけるんだな。と思う。
原始的なエネルギーを感じる。
実在の人物がそこまでの悪人だったか、あるいはそれ以上だったかは分からないが
少なくともモリエールは、この人物に喜劇的な愛情を持って描いているように思われる。

でもこれは、わたしたち日本人には相当にハードルが高い。
アフリカの人は視力がものすごい良いっていうけど、
そういう意味で、
日本人も昔は空気に響く下駄の音で、時間や季節を知ったというけど、
そういう意味で、
原始的なエネルギーが、私たちって退化しちゃってるように思う。
退化しちゃってるから、退化した感覚で頭脳で、この戯曲を解析しようとすると
ハマる。
まず、原始人になることだ!!!
どうやって!?
わからん!!!
この芝居を作っていく過程でものすごくイライラしていた時期があって
友人に「叫んでみたら? 」
とすすめられ、まだやってないけど。
叫んでみようかな。
発声の訓練ではなく。
ただ叫ぶ。
「うおお更年期なのか!!!! 」
めざめよわたしの野性。

大久保美智子

Top «« .. 31 32 33 34 35 36 37 38 39 40 41 .. »» Last