06/11/07

YAMANOTE TRIP

「ジブリ美術館に行きたいです」

明日からは三鷹の稽古場で練習です。という訳で、今日は稽古と平行して移動の準備です。

「青い鳥」はとても小道具の多い芝居に仕上がって来ていて、僕を含めて5人の人間が小道具係についてます。
手伝ってくれている研修生二人からは、
「宗吉さん、FAXが送れないんですけど〜?」
「私を稽古場日誌に載せてくださいよ〜」
上司の名久井氏はトラックの運転席から
「宗吉、サイドミラーに映るように誘導しなきゃ」
そして盟友・ワタナベからは
「俺は『渡邊』じゃない、『渡邉』だ、間違えるな!!」……どっちだっていいじゃん、いつもどっちか迷うんだよ、もう「辺」でいいよ、俺のために改姓しろ!
そんな理不尽な要求をしてしまうほど、キリキリ舞キリキリ舞ーい。
僕のストマックもキリキリ舞キリキリ舞ーい。

でも僕の涙の数だけ作品の質はどんどん上がってきております。必ずや皆様を素敵な旅に御招待できるでしょう。劇場でお待ちしております。
ではでは。

宗吉 和幸

06/11/06

YAMANOTE TRIP

「演劇の亀様」

倉品淳子です。
私は動物園に行くと必ず亀の前で立ち止まり、やたらと長い時間を過ごしてしまいます。私の目には亀はなにか馬鹿デカい苦悩と葛藤を抱えてじっと中空を見すえているように見えます。
命の存在の不可思議さを模索しているのか? はたまた、檻の中にいる自分の運命を呪っているのか? 時間を忘れて見入ってしまいます。
当の亀様はきっとなんにも考えちゃいないんでしょう、その証拠にのびのびとうすらとぼけてほくそえんでいる亀を見たことがありません。
もし、亀が涙ながらに手をじたばたさせて「出してくれー!」と叫んでいたらどうでしょう? 初めは面白いけど、そんなに長居はしないと思います。

演劇にはきっとこういう観客に想像力を喚起する隙間が必要なのだと思います。でも、お手本の亀様がやっているように、どこか途中まではやんないと、なにがなんだかわからない。必要最低限。
…って一体どこ? なんてことを考えながら今日も稽古にはげんでおります。
「青い鳥」も「ファウスト」もお客様の想像力をぶわっと広げる作品にしたいなあ。なんて考えています。楽しみにしていて下さいね!

06/11/05

YAMANOTE TRIP

「大人の会話」

本番まで約二週間です。
迷走しながらもちょっとずつ前へ進んでます。
四畳半の動きを作っているとき、大体こんな会話がなされてます。

「こうさあ、もっとさあ、なんか・・ふぁんって感じじゃない?」
「そこで、ギュウーと落ちるんだよ」
「バサッとじゃあなくて、こう、パサッとだよ」
「スーッとね、スーッと、煙が立ち上がるように」
「水に石が沈むときの、ドゥンて感じ」
「こっちだけこんな風に、ストン! っていうのどう?」
「ビシッと だよ、もっともっとビシ! ビシー!! 何が起きてもビシ!」
「今のはグワーンじゃん、さっきのはグーワーン、もっとさあ、ギュワーンっと」
「時間がピーンとなるような・・なんか周りの風景がバーッと、ほら映像とかでよくあるさ、バーッ!!」
「こうなると見せかけて、こっちにボン」
「こう、・・・・・・・・ばっ、こんな風に、・・・・・・ばっ」
「これどう? ザーーーーッ」
「こっちからギュッじゃあなくて、こっちから一気にキュルキュルキュル」
「いっしょにズズズズズ」
「こっちはまんまで、足だけフニャリと、いや今のはカックンだよ」

ほとんど高度な日本語での会話は無し。体を動かしながらやりとりしてるんでこんな会話になるんですが、文字だけで読むと何が行われているのか全くわからないです。
でもホントはものすごい情報量のやり取りをしてるはずです。一応それなりに肉体のコミュニケーションと言えるのかもしれません。
芝居のコンセプトや演技プランなどについてどれだけ抽象的な言葉が交わされたとしても、結局役者のからだを動かすのは言葉じゃなくて、感覚。そして音とヴィジュアルを通じての理解。このアホっぽい会話を自信をもって楽しもうと思います。
お客さんとは会話は出来ません。作り手の論理は大事だけれど、それがホントに実現出来てるのか?さらにさらにそれが観客に伝わってるのか?決して独りよがりの表現にならないで、お客さんの感覚にダイレクトに訴えるものになっていくことを祈ります。

山本芳郎