稽古場日誌

傾城反魂香 山本 芳郎 2017/10/13

《四畳半》は変わっていけるか

《四畳半》のことについて何か書くことになりました。俳優が自分のやっている《四畳半》について書くのはちょっと野暮かとは思うのですが、それも承知で書かせていただきます。稽古場日誌に載せるには少々長いと思いますが。

《四畳半》は初めて見る人にとっては違和感があると思います。
あんなに体をゆがませながら動いて何を表現しているのか、と思われるかもしれません。
いろいろな言い方が出来ると思いますが、さしあたり、「人間の本当の姿」を示しているのだと言えるでしょうか。
普段は見えないけれど、僕らの生きているこの世の中のどこか裏側の世界に、本気で生きている人間の情念のうずまく世界があるとして、そこをのぞき込むとその世界の住人の姿は激しい情念のために体がゆがんで見えるらしい。
本気で生きている人間の心の姿は、強く前向きな感情や、激しい執着、暗い負の感情などでおそらくゆがんでいます。ドロドロだったり、破裂しそうなほど圧縮されていたり、燃えるほど熱量があったり。
だからゆがんでいるのです。
鏡がありのままの世界を真逆に写し出したり、レントゲン写真で骨格がありのまま映し出されるように、情念の世界をのぞき込むと激しい人間の心の在り様がありのままに見える。
それを視覚化していると思っていただければいいと思います。
情念の世界とは言うまでもなく古典戯曲の世界です。

ただこれは正確でないかもしれません。
なぜなら俳優の体は「見えているもの」だからです。
芝居は「見えているもの」を通して「見えないもの」に迫っていきます。
だとすれば、俳優が体をゆがめて表現しているものは、役の人物の魂だけでなく、もっと大きなテーマなのかもしれませんが。

それはさておき、ここまでは理屈です。
理屈がそうだからといって、俳優がただ頑張って体をゆがめるだけでは役の人物は見えてきません。
演技にならないのです。
その理屈を実現するために実際どんな風にゆがんでいけばいいのか、いろいろ工夫をしていかなければいけないわけです。

ここからは少し演じる側の事情の話になってしまいます。
《四畳半》は観客だけでなく俳優にとっても難しいものです。
入りたての新人はもちろんベテランも苦戦します。
一体何が難しいのでしょうか。
くねくねとゆがませて動くことが難しいのでしょうか。
そうではないのです。
確かに運動量は多いし、セリフを吐くことも大変だけれど、ある程度訓練すればじきに慣れるものです。
では何が難しいのかと言いますと…

自分で自分の《四畳半》を信じることが難しいのです。

役について考えることも難しいのですが、想像上の役の声や動きと実際の《四畳半》の動きを具体的につなげていくことが難しいのです。
今この形で自分の役を表現していると自分で確信を持つ必要があります。
そうでないと見慣れないゆがんだ体を観客に納得してもらうことは難しい。
観客に信じてもらうためにまず自分が信じられないといけない。
では信じるためにはどうすればいいか。
自分の体の中に根拠を探し出す作業が必要になるのです。

《四畳半》で芝居をすること、その様子を俳優の立場から個人的に言葉にしてみると自分との交信という感覚です。
交信というとなにやらUFOとの交信みたいにオカルト的な響きになってしまいますが、
人間の体はUFOなどよりももっと不可解なものなので、あながち間違った言葉でもないのです。
体の中で起きた具体的な感覚と演技のぴったり共鳴するところを探し出していく。
あるいはチューニングというか。
そのためにいろいろな訓練をしていきます。
要するに俳優の体の中に役とリンクさせるための具体的な根拠がないと《四畳半》は全く空疎なものになっていくのです。

大事なのは俳優が今まさに自分の身体の奥(あるいは外側)と正確に交信しようとしている現在進行形の出来事あって、
舞台にそうした俳優がいたときに、観客が俳優の体の中をいっしょに探ってくれるようになる。想像力を使って役の人物をその俳優の体に投影してくれるようになる。
そこに芝居の幻想が立ち上がる余地が生まれるのです。
問題はそのチューニングが正確かどうかです。
ともあれ、そういうようなことを俳優はやろうとしています。
出来るか出来ないは別として、ちゃんと目指すべきなのです。

10年以上前のことですが、《四畳半》に飽きてきて、面白くないなあと感じ始めたことがありました。
いくら作り手にそれなりの理論や理屈を用意していても、変な表現をするだけではダメなのではないか。
様式の作法を無視してはダメなのではないか、観客は理論を見ているわけではないのだ。
そんな風に考えていた時期がありました。

そんなとき、たまたまある武道家の先生が稽古をしているときに見事な《四畳半》を見せてくれたことがありました。
いや、正確に言うと、先生はもちろん《四畳半》なんかをやったわけではなく、あるワークの見本を示してくれただけで、僕が勝手にそこに《四畳半》を見て取ったというだけなのですが。
時間にしてほんの5秒くらいのわずかの動きの中に、今まで見たこともないような明確で力強い《四畳半》がありました。
人の体が意識を持つとここまで説得力のあるものになるのか、と目が覚めた瞬間でした。
見せられたものは決して特殊なものではなく、誰でもこういう風になるんですよという見本です。
しかしそのことで、自分たちの今までやってきた稽古や考え方が絶望的なほどピントがずれていたことを思い知らされたのです。
そしてそれは《四畳半》ならではの何か特殊な技術や方法などが足りなかったということではなくて、むしろ普遍的で当たり前のことをやってなかっただけなのです。

当たり前のこととは何なのか、詳しくはややこしくなるので触れませんが、
たとえば、体は本来つながっている、体には重さがある、といった大前提みたいなものです。
自分の体のとらえ方、深め方、そもそも声を出したり体を動かすというのはどういうことか、といった表現者が考えるべき根本的なことです。
当たり前のことといっても、身につけていくのはものすごく難しいことです。
でもそれがないといくら前衛的なことをやろうとしても独りよがりのものになるのです。
能や歌舞伎にしても、世界中にある様式表現や伝統的な踊りなどにしても、見た目の形は特殊でも中身は当たり前の作法で満たされています。
当たり前を無視した身勝手な思いつきの試みは淘汰されてきたはずなのです。

まだまだ《四畳半》にはやることがある。
《四畳半》を始めて18年くらい、当初はかなり表層的に捉えていましたが、いろいろ地味な思考錯誤はくりかえして現在に至っています。
やることが満載で、スタートラインにも立ってないぞというのが正直な実感なのです。もっと深めないといけないと思います。

まもなく『傾城反魂香』が始まります。
今のわれわれで精一杯やれるところまでは最後まで粘りたいと思います。
出来れば観客のみなさんに面白いと思っていただきたいと思います。

山本芳郎

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『傾城反魂香』
2017年10月13日(金)~15日(日)
大田区民プラザ 大ホール
公演情報はこちらをご覧ください。
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