稽古場日誌
劇団が40周年ということで、過去の作品の「アーカイブ上映会」というイベントが行われ、久しぶりに大昔の先輩方の映像を見る機会があった。
今の山の手事情社の《四畳半》とは似ても似つかぬ芝居。
80年代演劇を疾走するスピード感満載の芝居。
しかしとにかく面白い、学生演劇のレベルを完全に超えている。
当時の空気を少しでも知っている僕は、なつかしさもあるが、いろいろなことを真面目に考えさせられた。
あらためて自分は優れた先輩方に恵まれたなと思う。
面倒くさい先輩ばかりだったけど、それはそれは凄い演劇を見せてくれた。
舞台の上でどんな集中が必要とされているのか、どんな変態スイッチを入れなければいけないのかなど、たくさん学ばせてもらった。
今となっては自分とそれほど年の変わらない方々だけれど、絶対に追いつくことは出来ないと思ったものだ。
その気持ちは今でも1ミリも変わっていない、変わっていないどころか、追いつけなかったという心の傷が深いところで鉛のように沈み込んでいる。
ただ僕にとって、この世には絶対に追いつけない世界があるのだというネガティブな思いを人生のわりと早い時期に味わったことはとてもよかったと思う。
追いつけない越えられない世界を刷り込まれることが、自分の中に何か大事なことを熟成させていく原動力になってきたのではないだろうかと思うのだ。
一方では越えることを目標にして頑張る世界もあるとは思う。
たとえばスポーツの世界なんかでは、記録というのはいつか破られることが前提になる。
記録更新への執念がその人の原動力になり、結果的に記録を越えたとき周りもそれを認める。
そうではなくて、越えられないのだ。人生を何度繰り返しても追いつけない。
ホントはいつか追いつくのかもしれないけど、自分の中で絶対的な壁になるということだ。
追いつけないのであれば、別のことをやるしかない。
別のことをやって、同じ高みに登るしかない。
お仕着せではない、自分たちの表現。
別に逃げや諦めではない、要するに僕は、先輩たち自身も自分たちの表現として何をやっていたのか? 何を追いかけていたのか? という発想に行きつく必要があったのだ。
伝統芸能やその他の芸事などでは師匠は絶対に越えられない存在だ。
しかし現代演劇の場合、師匠を真似て師匠の背中をまっすぐに追いかけていくことが必ずしも修業にはならない。
もし僕が先輩方をただまっすぐ追いかけているだけだったら自分たちのやることを見失っていただろう。
あるいはまた、先輩方がそこそこの実力で、自分でも追い越せると思えるレベルの方々だったなら、いつか追いついて、でもそのうち芝居が古くなり面白くなくなって演劇を辞めていたと思う。
だが実際はとんでもないレベルの方々だった。
では別のことをやればいいのか?
いや自分たちの表現といっても、ただ新しいことをやるだけでは薄っぺらいものになるだけだ。
先輩方が大事にしてきたものから何を受け継いでいくのか。
普遍的で共通の演劇魂は何だろう。
先輩方だって、アングラ演劇へのアンチとして疾走感満載の作品をやっていたけど、よく見れば60年代70年代演劇の影響をものすごく受けている。
つまるところ、前衛とは伝統の継承なのだ。
僕は、追いつけない越えられない世界を考えることで、スタイルにかかわらず受け継いでいかないといけない演劇の大事な作法を考えるきっかけになった。
今、稽古場では『オセロー』『マクベス』に向けて連日一生懸命リハーサルが行われている。
スタイルがどこに落ち着くかはわからないが、新しいものを模索しつつも演劇の大事な面白さだけは見失わないようにしたいと思う。
演劇の場合、一番新しいものを支えるのは一番古いものなのだ。
山本芳郎
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劇団 山の手事情社 二本立て公演
『オセロー』『マクベス』
日時=2025年2月21日(金)~25日(火)
会場=シアター風姿花伝
詳細は こちら をご覧ください。