稽古場日誌
かもめ ルーマニアツアー 山本 芳郎 2023/06/21
『かもめ』はロシアの戯曲です。
いま戦争をしている国です。
昔からいちいち戦争をしていました。
高校の社会科で習いました。
根っこにあるのは、異常に強烈なコンプレックス。
19世紀、広大な大地と伝統をもつ大国でありながら、産業革命を起こせず後進国になりさがっているロシア。
何とかヨーロッパと肩を並べたいロシアは何かと戦争を仕掛けて領土を広げようとしますが、なかなかうまくいきません。
クリミア戦争でも完敗して悔しくてたまらないロシアは、近代化を阻んでいる古い農村の土地制度を皇帝自らが音頭を取って急激に変えようとします。
農奴解放、上からの改革というやつです。
しかしその改革が急すぎて中途半端だったために社会にますますの矛盾が起きてしまい、ナロードニキというインテリ階層を生み出して、ロシア革命の原因になっていき……。
別に歴史の話をしたいわけではありません。
ただ共産主義という理想が力をもち、その後悲惨な20世紀があって、今の僕たちの世界の枠組みが出来たわけですから、チェーホフの生きた19世紀末のロシアというのはかなり重要な節目なんだろうと思います。そしてその時代の気分が芝居世界を理解していく上で無視出来ないように思うのです。
チェーホフの『かもめ』は、そんな激動の世界史とは無縁にみえる静かな田舎にある湖畔のお屋敷が舞台です。
ささやかなお話です。
ささやかなのですが、そこに描かれる深刻な孤独が、その時代のロシアの病理というスケールの大きい話としっかりつながっていることが、この作品を分厚くしていると思います。
『かもめ』の中の人々はある病にかかっています。
自己実現の幻想とでも言うべき心の病です。
“自分の人生は自分で選び取ることが出来る”
“今ここにない幸せがどこかにある”
それはまさしく近代以降世界中の人々が感染した病です。心のパンデミックです。
夢、憧れ、自己実現……理想は生きていく活力にはなるかもしれませんが、満たされない幻想は結局人を不幸にし、孤独にします。
コンプレックスありすぎのロシアの自己実現は言うまでもなくヨーロッパになることでした。
それはその後の世界史を動かします。
世界中が幸せを目指して豊かになろうとしました。
ただそれは欲求レベルでは満たされていても魂レベルでは不幸な人間たちを無限に作り出しました
自己実現の病が人を不幸にする。
時代の節目に生きたチェーホフはそれを現代人がずっと抱えていく問題として見抜いていました。
山の手事情社の『かもめ』は、いまだにパンデミックの中にさまよう現代人を剥製として描きます。
ルーマニアの観客に伝わるだろうか?
伝わるといいなと思います。
なぜなら、日本は豊かだけれど、心の孤独の深刻さにおいてルーマニアには負けてないように思うからです。
山本芳郎
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