稽古場日誌

外部活動 倉品 淳子 2017/03/05

「BUNNA」奈良・福岡公演を終えて

3年前から福岡で取り組んでいるこの作品は、2015年に福岡で初演、2016年に横浜、大阪公演。それが波紋を呼び、2017年2月5日奈良公演。2月16日の凱旋福岡公演までこぎつけることができました。一つの作品を長くつきあうという経験は現代日本ではあまりできないことらしく(山の手事情社では、しばしばありますが)長く舞台を踏んでいる60代の女優さえも初めてだと言っていました。

初演はただただ夢中。再演でやっとコンセプトを考え、最後は俳優の練れの段階まで到達できたのではないかと思っています。

この作品は、アールブリュットとか、アウトサイダー・アートとかっていう呼び名でカテゴライズされる時があります。最近の言葉です。多分、「障がい者が出ている演劇」ということなんでしょうね。確かに障がい者アートという言い方がしっくりこないのは私も同じで、何か良い呼び方がないものかなあ、と考えています。

もともとアールブリュットは、フランス語で「生の芸術」という意味だそうです。
「既存の美術や文化潮流とは無縁の文脈によって制作された芸術作品の意味で、 英語ではアウトサイダー・アートと称されている。加工されていない生(き)の芸術、伝統や流行、教育などに左右されず自身の内側から湧きあがる衝動のままに表現した芸術である。」とネット上で定義されています。
うーん……。やっぱりこれは違っています。この作品は私が、山の手事情社という日本でも中堅の劇団で培ってきた演劇の文脈で制作した芸術作品だから。それに、表現というものはすべて、なんらかの衝動の現れでしょ? なんか変ですね。

まあそれは、いいとして…。今回は、越境ということについて書こうと思います。「ケアとアート」「演劇人とヘルパー」など、境界線を越えようというムーブメントは日本各地で発生しています。

この「BUNNA」の現場でこの事を考えてみましょう。演出家の私が移乗(車椅子に乗せたり降ろしたりすること)をやったり、ヘルパーのスタッフが字幕オペや、袖でのきっかけ出しをしたり、聾の俳優が車椅子の俳優とお風呂に入ったりということが多数ありました。
それは、単なるいい話ではない、意義があるのです。ケアを専門的にやっている方々は、ケアを技術だと思ってしまいがちだそうです。それはそうですよね、学校があって免許が必用な一種の技術です。
でも、もっと基本的にはケアは、人との関係を扱った仕事です。そしてそれは演劇もそうなのです。自分の役割を超えてみんなで芝居を作っていくと、この当たり前すぎることを忘れていることに気づくというのです。別に私は福祉のためや、障がいを持つ方々のために、演劇をやっているのではありません。ですから、上記については、へえ、そうなんだ…。という感じです。

私は、つねに自分の見たいもののために、動いています。俳優には私の見たいシーンのために、体力のぎりぎりを使ってもらいますし、わざと傷つけるようなこともいいます。私は知っています。車椅子の青年が、流れる汗もそのままに走る姿を見せてくれることを。脳性まひの俳優が、蛇の姿で立ち上がる様を表現できることを。70を過ぎた女優が、まぎれもなくかわいい女子高生に変身できることを。それらを見たいがために俳優を追い詰めることになります。

奈良の公演は、奈良県の障害者芸術祭のために、奈良県とたんぽぽの家という法人が私たちを招いてくれたのですが、私たちの稽古の厳しさに驚いていました。打ち上げの席で、「障がいを持っていたって、厳しくされる権利はある」と話したことにも驚きがあったようでした。でも、そんな事は当たり前です。表現したいものへ到達するために、努力するのは俳優として当たり前ですし、障がいを理由に手加減をするのは、芸術への冒涜ですし、俳優にも失礼です。

私は、これまでと変わらず、演劇を当たり前にやっていこうと思っています。それが、何かの作用を生んで、演劇の価値が上がるのなら、それはまあ、嬉しいことに違いないです。

あれ? 私自身は、全く越境してないですね。もしかしたら演劇そのものがボーダーのない芸術なのかもしれませんね。

ニコちゃんの会の活動は新作に向けて動き出しました。どうかこちらもご期待ください!!

倉品淳子

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認定NPO法人ニコちゃんの会ウェブサイトにもこれまでの活動の様子や報告が掲載されています。ぜひご覧ください。

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