稽古場日誌

テンペスト(2018年) 安田 雅弘 2018/04/11

稽古場の日々

 稽古は14:00に始まる。俳優はそれまで各自身体をほぐし、発声練習をして喉の調子を整え、稽古場の掃除をする。少し早めに来て、自分たちの出演シーンを練習しているグループもある。
 14:00になると「朝輪[あさわ]」と呼ばれるミーティングだ。俳優だけでなく、劇団メンバーが全員集まって、今日の予定や、連絡事項を共有する。
「作業の残りがあるので、手の空いた方は手伝ってください」
「明日の夜は、通し稽古です。スタッフさんがいらっしゃいます」

 終わるとすぐに『テンペスト』の稽古、というわけではなく、俳優の山本が他のメンバーに身体のとらえ方や使い方についてのレクチャーを行なう。
 たとえば手をひねった時、そのひねりがヒジ、腕、肩、背中、ワキ腹と身体の中でどのように伝搬していくかを自覚する。あるいは背骨とヒザが、内部でどのようにつながっているのかを確認する、といったかなり専門的な中身だ。山本だけでなく、他のベテラン俳優が指導することもある。

 そうしたトレーニングを小1時間行ない、本番の練習に入る。順番は「朝輪」で伝えられている。ここからは演出を担当する私の進行になる。
 今日は第二幕第一場から。島に漂着した王族たちの場面だ。重いBGMが流れる中、王族たちの不安や策謀が描かれる。シーンを一通り見て、それが終わると気になるところを止めつつまた何度か見る。
「その間[ま]、詰めて」
「第一音、もっと低く」
「そこ、止まる」
「そんな表情じゃ役の内側が見えてこないよ」
細かい指示を出す。指示の出し方は、演出家によってそれぞれ違う。全ての役を自ら演じてみせて、俳優に同じことをやれ、というタイプもいる。ずぼらな私にはとてもむりだ。一応「俳優の自主性を重んじる」という名目を掲げ、やってみせることはめったにない。またそんな自信もない。

 演出作業の難しさは、俳優にとっての演出家のように、自分にダメ出しをしてくれる人が、本番の観客以外にはいないことだ。「一体自分はどんな空間が作りたいのだ?」ということを絶えず自問しておかないと、同じシーンを何度もみているうちに、何がやりたかったのかわからなくなり、「こんなことだったっけ?」と呆然とする。

 5分ほどのシーンに1・2時間かけることもあれば、1・2回見て、口頭で注意点を伝え、次のシーンに移る場合もある。1階のスタジオで稽古を見ている間、2階では別の場面の稽古が進んでいる。出演者どうしで話し合ったり、手の空いている俳優に見て貰って感想を聞いたりする。
 《ルパム》というダンスシーンの稽古も毎日行なわれる。振付は公演の何カ月も前から俳優たちが試行錯誤して発表し、作品に合った面白いものが選ばれる。本番前の今のような時期になると、構成や俳優の配置はすでに決まっているので、振りの詰めが行なわれる。
「表情が硬い」
「ヒジの角度が違う」
「そこていねいに、ぶれない」
振付担当の俳優から注意が飛ぶ。それが22:00まで続く。

 稽古にはばかみたいに手間と時間がかかる。生身の人間ゆえ、昨日できていたことが、今日できなくなっている、ということも多い。何度も練習をして完成度を安定させなければならない。また本番では思いがけないことが起こる。稽古を重ねて起こるべき事故はあらかじめ起こしておくという側面もある。それにしても資本主義の世の中にあって、コピーのきかない作劇作業は、きわめて効率の悪い、おそろしく生産性の低い作業といえる。けれども、お芝居はそのようにしか作れない。またそのように作るから価値がある。

 縁のない人から見れば「どこがどう違うの?」という細部にまで、メンバーは侃侃諤諤[かんかんがくがく]と意見をたたかわせる。それを見ていると、私たちは本当に人間への興味が尽きないんだな、と痛感する。人間を愛していると同時に憎んでもいる。人間に希望と同時に絶望も感じている。人間は美しく同時に醜い。――そう、演劇に秘められた教養は、私たちの人間や人生を眺める視線を、よい意味で複雑で、深く、豊かにしてくれるのだ。そのことが世間にあまり知られていないことが、残念でならない。

安田雅弘

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劇団山の手事情社ヨーロッパツアー壮行公演『テンペスト』
(下丸子×演劇ぷろじぇくと2018特別企画)
日程=2018年4月12日(木)~13日(金)
会場=大田区民プラザ 大ホール
詳細はこちらをご覧ください。

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