稽古場日誌


「源氏物語」を読み進めていくうち、“恥”という語がやたらと登場することに気がついた。
恥づかし、もの恥ぢ、そら恥づかし——
光源氏も、身分の高い女性も低い女性も、帝も、まだ幼い子どもまでも、様々な場面でそれらの語を発している。つまりそれは、単なる個人的な感情を超えて、平安貴族社会の空気そのものを形作るキーワードだと思えてならない。
「源氏物語」における“恥”は、文脈によって、自身の劣等意識だったり、相手の素晴らしさへの賞賛であったり、それらが高じて恐ろしさまで感じている様子だったり、実に豊かにその時代性とキャラクター性を知る手掛かりになっている。
しかし“恥”が蔓延し、それらに囚われている社会は、果たして豊かと言えるのだろうか。光と雅に満ちているように思えた平安の都が、ふと、胸の奥を締めつけられるようなゆがんだ相貌を見せ始める。
日本人は、人目を非常に気にする「恥の文化」と言われるほどだから、恥ずかしくて堪らないという気持ち自体は現代人であってもよくわかるものだと思う。
それでも、平安に生きる彼らにとっての“恥”には、現代の私たちが想像するよりもはるかに重く、深く、人の生死や運命をねじ曲げるほどの巨大な圧力がのしかかっているように思えるのだ。
光源氏の最初の正妻・葵上[あおいのうえ]、そして愛人である六条御息所[ろくじょうのみやすどころ]。
ふたりはともに高貴で教養深く、美しく気位が高い。けれどその輝きの裏側には、光源氏よりもいくつか年上であるという、私たちから見れば取るに足らない“恥”がひそやかに巣くっている。
葵上は、光源氏と出逢ったその日、自分が彼より4つ年上だと言う気恥ずかしさが気になってしかたがない。そしてそれから何年経っても夫と心を通わせることができずにいた。
六条御息所は、元東宮妃として誰もが憧れる存在だった。しかし光源氏に身を許し、やがて捨てられたという噂が広まり、そのことで帝が光源氏に苦言を呈するほどの騒ぎとなったとき、その“恥”は彼女の心を深く蝕んでいく。
さらに彼女を徹底的に打ちのめしたのが、今回の芝居でも描かれる賀茂祭の車争いである。
お忍びで光源氏の晴れ姿を見に来た御息所は、あとから来た葵上一行と揉み合いになり、衆目の中で大変な屈辱を味わわされる。その瞬間、御息所の“恥”はもはや感情ではなく、彼女の魂を侵食するモノノケとなり、生霊という形で彷徨い始めてしまう。
当時は、妻がいても他の女性に手を出すこと自体は別に恥ではない。むしろ一度手を出したくせに、手紙も出さず放っておくほうが恥。そしてそんな移り気な男に、嫉妬心を抱くことはもっと恥。
平安の時代を覆う複雑で巨大な“恥”の重みに思いを馳せながら、現代にも姿を変えて生き続ける“恥”のことを考えている。
それは他者には見えず、触れられず、言葉にしてもなかなか伝わらない。とても繊細でやわい部分をさらけ出され傷つけられる痛みを、時代を超えて、お客様と分かち合えた先に見える光を私は追い求めているような気がする。
名越未央
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劇団 山の手事情社 公演『葵上』
日程=2026年3月3日(火)~8日(日)
会場=小劇場B1
詳細は こちら をご覧ください。