稽古場日誌

傾城反魂香 大久保 美智子 2017/09/09

どうなる《四畳半》

こんにちは大久保です。《四畳半》について書いてくれと頼まれました。私に書かせていいんですか? と問うと「いいです」。それならばせっかくなので生意気なことを書こうと思います。ご意見・批評・批判大歓迎です。

以前も書きましたが、《四畳半》が生まれるまでにはかなりの時間を要しました。そして何となくの方向性が出来てからも試行錯誤が続きました。

日本には能や歌舞伎といった様式の世界がすでにあり、それらは600年とか300年とかいう歳月を耐えて今に残っています。その分淘汰もされています。そこに対抗しようというのですから、こんな酔狂なことは一生の仕事になると震えた覚えがあります。

しかし数年前から劇団内で《四畳半》を後輩に伝えるということはあっても、《四畳半》を捉えなおす試みはされなくなった気がします。それはすでにルール化されていて侵されざるものになっていきました。確かに簡単にひょいひょいルールが変わっていては「だったら何だっていいじゃん」になってしまいます。だからこそ、ルールの必然性、どこまでが守らなければならない砦なのか、そもそもそのルール何のため? という問いは、非常に面倒ですが、毎公演、検討しなおさなければならない課題だったはずでした。

「なんだかマズイ」と思ったのは若手公演の『オイディプス@Tokyo』でした。とてもすがすがしい公演で、私も感動した場面がいくつもありました。しかし「これ《四畳半》じゃなくていいよね」と感じました。同じような感想をルーマニアの俳優による『A Japanese Story』(「女殺油地獄」原作:近松門左衛門)を観ても持ちました。必然性が感じられない。何がひっかかったのか分析すると、「体を曲げること」をやっていて「役」をやっていないと感じたからだと思います。《四畳半》でない方が雑味なくすっきり伝わりそうだと感じたのです。『オイディプス@Tokyo』で確かにみんながんばって体をくねらせていました。私は感じてしまいました。「で? そのくねりは作品の何に結びついている?」

《四畳半》のルールのひとつに「体をくねらせる」というのがあります。まっすぐに立たない。何故かと云いますと、まっすぐにストンと立っている人と、どこか歪んでいる人を並べると、歪んでいる人のほうがエネルギーを感じるという仮説からです。また同時に現代に生きる私たちの精神の歪みも表現していると。古典の人物は現代人とは少し違うレベルのエネルギーを放っていますから、そういった体の中の仕掛けが必要だと考えました。

しかしここまで《四畳半》を探求してきた私たちは、そんなに大きく体を歪めなくても、体の内側に緩まないための張りは造れるのです。(それがいつでもできる、というわけではありません。油断するとすぐに失われるので、そのための稽古が必要です) 能の演技はまさにそれだと思います。内側に緩まないための仕掛けを張り巡らせて、表面は何事もないように演じる。

体の芸術の怖いところは、見る人が見れば、一目瞭然ということです。体は嘘をつかないので、緩みも力みもそのまま表現されます。私ですら、舞台上の歩行を見れば大体その俳優さんの身体的なレベルは判ります。見ることができる人にとっては、テンポとか、動けているか、というところは副次的な要素です。動きの質を見ますし体の中を見ます。どれだけかっこつけてもバレてしまうものです。そういう怖い世界で勝負しようとしているのに、現状の《四畳半》は少々お粗末なのではないか。あたしゃこんなとこで留まりたくないよ、という本音がありました。それが『班女』での実験につながって行きます。

《四畳半》にはおもしろいところが沢山あります。「これはリアリズムではできないよね」という表現もできてしまいます。例えば代表作のオイディプスでは「自分の目をえぐる」を「テレビの画面を割る」という行為に置き換えています。またズームしたり引いたりするのも自由です。一歩大げさに足を出せば、そこからは別世界、といった手法も演劇ならでは。こういう工夫をするのは楽しいです。センスさえあればいくらでもおもしろい画をつくることができます。しかしこれも様式の世界では既にやられていることで、厳密に言えば「《四畳半》ならでは」というわけではなさそうです。

細かく検証していくと《四畳半》を《四畳半》たらしめているのは、今のところルールでしかないのではないかと思えてきます。体をゆがめる、発語している人とそれを受ける人は向き合って止まる、発語している間は体を動かさない、その場の全員に言うには正面を向く。

それをするのはなぜ? 作品の何に奉仕している? この問いをもう一度、問い直さなければならない時期にきているのではと思います。人ごとではなく、私自身が。そして劇団全体が。

《四畳半》は退化しているような書き方をしましたが、実は個人レベルでは更新され続けています。しかしそれが全体のことになっていません。ここに体の難しさがあります。体の中のことは見えないので、例えば誰かが現状を突破できるような技術を獲得したとしても、分からない人には何がどうなっているのか分からないのです。言葉で少し説明して分かるようなものではありません。だから劇団には通常稽古が必要で、長い時間をかけて体の言語を共有していく必要があるのです。しかし現状の稽古は残念ながらそういう場として機能していません。見る方もルールがあると楽なので、ついルールを基準に体を見てしまいます。

厳しい現実、高い理想。せっかく高い山を目指すならとことんやろうよ。もう私も歳をくってきたのでどんどん体は怠ける方向へとシフトしています。それが自然な流れ。だからこそ、ここが正念場。

現時点での山の手事情社の実力、ぜひお客様の目で観て、判断してください。

大久保美智子

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『傾城反魂香』
2017年10月13日(金)~15日(日)
大田区民プラザ 大ホール
公演情報はこちらをご覧ください。
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