稽古場日誌

外部活動 河合 達也 2019/10/22

外部演出公演『域地−ikichi−』を終えて

こんにちは。山の手事情社演出部の河合です。
外部の劇作家の方より演出依頼を受け、8月に初めての劇場公演を致しました。創作に関わる方々の支えもあり、無事に公演を終える事ができました。とても追いつめられ苦しい創作ではありましたが、その分得た物も多く、特に二つの事を大きく学んだ様に感じます。

一つは、僕が舞台上の俳優に求める身体の在り方が明確になり、その身体を追究するための稽古方法を確立した事です。
初めてお会いする俳優・スタッフばかりの現場で、何よりもまず自分の言葉が通用するかが不安でした。これまで劇団の中で使われる共通言語に触れ続けてきたので、そこで学んだ知識や言葉を、今度は劇団の外部の方々に通じる言葉に変えて伝えなくてはなりません。そして稽古時間も、普段劇団で行われている様な週5〜6日、一日8時間(!)みっちりととはいかず、週に3〜4回、しかも一日3〜4時間と限られていましたので、なるべくコンパクトに必要な事を伝えて見せたい身体を共有しなければなりませんでした。そのため稽古メニューもかなり限りました。
とにかく自分が見たいものは何なのか、短い稽古期間や本番の最中ずっと考え続けました。「身体の内側に対する強い緊張と集中」が僕にとって追究したい俳優の姿なのかな、と思います。言い換えると「新たな表現を獲得しようともがく不安定な身体」と「答えの無い問いかけに対し強引に解を導く強い意志」が見たいのだと思います。
「じゃんけん」という稽古メニューが有ります。勝ち負けによって沸き起こる感情を身体で表現するという単純な構造の稽古なのですが、例えば表情で喜びや悔しさを表現する人に「表情をつけないで」と制約すると、とたんに鮮明な感情表現が出来なくなるのです。或いは手振りで表現する人、全身硬直する人。人それぞれ得意な身体や感情の回路があって、それを封じられると人はパニックを起こし表現に対する緊張感が爆発的に高まり、今までに使った事の無い回路の感情と身体を表現しようと極限まで集中します。その緊張し集中した身体こそが僕が舞台上で見たい俳優の身体なのです。

もう一つは、戯曲との向き合い方に新たな可能性を感じた事です。
生きている劇作家と対峙することも今回初めてでした。今までは古典や近代の作品しか扱っておらず、「作者はこの戯曲を通して何を伝えたいのか」と模索しながら創作をしており、今回も劇作家の意図や目指したいものを考え続けて創作しておりました。すると劇場入り直前に劇作家のサカイリさんから、
「河合さんの芸術が爆発していない」
と指摘されました。途端に自分の行ってきた作業を疑いました。原作の目指している表現より僕自身の芸術性を求められていて、その期待に応える力が足りていないのだと痛感しました。これは生きている劇作家と対峙して初めて気付かされた事ですが、劇作家も作品に対する想いがそれぞれあって、忠実に再現して欲しいと想う事もあれば、もしかしたらとことん破壊して欲しいと想う事もあるのかもしれません。実際はもっともっと複雑な想いが込められているのだと思います。その中で僕は今まである種原作の奴隷に成り下がっていたように感じ、僕自身の表現衝動にも触れずにいたのだと感じました。もちろん今回の様に僕自身の芸術性を求めて頂ける場合ばかりではありませんが、これからは原作者のもっと深い想いを知るべく、作品の持つ芸術性にもっと闘いを挑んでいきたいと思います。

改めて演出家としての自分の甘さを痛感することになる公演でしたが、それでも胸を張ってお見せできる様な作品に仕上げられたように思います。
見に来て下さった観客の皆さま、共に創作に励んでくれた俳優の皆さま、作品を仕上げて頂いたスタッフの皆さま、肩を並べて創作の一線を張ってくれた劇作家のサカイリさんに、多大なる感謝を捧げます。
この度は、大変お世話になりました。
有り難うございました。

河合達也

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