稽古場日誌
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新型コロナウイルスの出現によって、世の中から演劇をやる意義が問われております。
そんな中、今年も研修生が集まってくれました。その中には、それぞれに様々な理由や決断があったことでしょう。
そこで、今回の劇団員による稽古場日誌は「何故ワタシは演劇をやるのか」をテーマとして、今年度の研修生を応援していきます。
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東京で緊急事態宣言が出たとき、いくつかの予定がいったん白紙になった。
それは、劇団の公演ではなく、自分が進めていた小さな企画で、
周りにそれほど迷惑をかけるようなものではなかったが、
稽古が出来ないことには困った。
海外ではロックダウンが始まっていて、日本でも本格的に外出が制限されるのか、
リモートで稽古が出来るように準備が必要なのかといろいろと気をもんだが、
海の向こうで実施されたものと比べると、日本で行われたそれはたいへん緩やかなもので、
しばらくすると稽古を再開することができ、いくつかの公演を実施することができた。
幸い、私の劇団には新型コロナウィルスによって亡くなったり、重篤な後遺症に苦しんでいる人はいない。
いないのだが、忘れてはいけないと思った。
海を越えたいくつかの国のカンパニーは、このウィルスに本当に苦しんでいて、
演劇ができないだけではなく、同じ劇団の仲間を失っているのかもしれないのだ。
そして、いつかそれは私たちの身近に迫ってくるかもしれないのだ。
そうしてふと思ったことがある。
ひとりの俳優が何者かを演じ、何事かを語る。
そして、ひとりの観客がそれを観ていれば演劇は成立する。
それがいちばん小さな演劇だと思っていた。
そう思って、ひとり芝居をいくつか作ってきたが、もっと小さな演劇があるのではないか。
ひとりの人間(それは俳優でなくてもよい)が目を閉じて、何事かを想像し、何者かになる。
それはどこへだって持っていけるし、どんな場所でも、どんな環境でも上演できる。
ウィルスが蔓延していようと、砲弾が飛び交おうと、声が出なくなろうと、身体が動かなくなりベッドに縛り付けられようとも。
目を閉じて、想像することができさえしたら、たとえ観客がひとりもいなくても、それはいちばん小さな演劇なのではないか。
なぜ演劇をやっているのかと問われれば、ものを作ることが好きなのだ。
誰に頼まれているわけでもなく、お金にもならないが、創作することがたまらなく好きなのだ。
研修生のみなさんへ
こんな時期に演劇を学ぼうと、劇団の門を叩いてくれて本当にありがとうございます。
この日誌が掲載されるころには、東京は緊急事態宣言の最中なのかもしれません。
最終発表が無事できるかどうか予断を許しませんが、こんなときだからこそ生まれる表現もあると思います。
どのようなかたちになるのかわかりませんが、最終発表を楽しみにしています。
斉木和洋