稽古場日誌

その他 安田 雅弘 2021/01/23

ワタシ

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新型コロナウイルスの出現によって、世の中から演劇をやる意義が問われております。
そんな中、今年も研修生が集まってくれました。その中には、それぞれに様々な理由や決断があったことでしょう。
そこで、今回の劇団員による稽古場日誌は「何故ワタシは演劇をやるのか」をテーマとして、今年度の研修生を応援していきます。
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「何故ワタシは演劇をやるのか」って?
この「ワタシ」をカタカナにしているのは、どういうニュアンスを狙ってのことかしら。
日本語は一人称が多いから、「俺」じゃ乱暴な感じがするし、「僕」は気取ってる印象だし、「私」だと必要以上に謙虚に見えて、「あたい」や「おいら」…では恥ずかしい。
つまり英語の「I」のイメージに近づけたいってことかな。余計な夾雑物のない欲望の主体としてのワタシ。

で、なぜやるのか?
それは「あの世」を見たいから、に決まってる。
「死後の世界」とか「天国・地獄」と言ってもいいんだけど、どちらかというと「『この世』じゃない世界」。
よく演劇やっている人は「芝居の魅力は非日常を描くことです」とか口にする。
ワタシ的には「非日常」なんて生ぬるいものではないんだな。「超日常」。「激日常」。「烈日常」。
つまり「この世」ではないが、「この世」に匹敵するあるいはそれ以上のリアリティがある世界。「こんな世界があるのか」と「日常」の目から見ても信じられる「信じられないような」世界。
「日常」をひっくり返す力のある、「日常」を対象化できる、「日常」が儚いものだと痛感できる、そういう情景が見たい。いやそういう風景があると思う。だからやっている。
私たちが自分の前にそびえたつ巨大な壁だと信じて縛られてしまいがちな「日常」をぶっ壊すテロリストでありたいと願ってます、ワタシは。

ところで、
まぜっかえすようだが自分には「ワタシ」という存在はずいぶんと「抽象的」に思える。カッコいいけど、そんな存在は「嘘っぱち」だなと感じる。
つまりね、ワタシという純粋な欲望があって演劇活動を続けている、と信じ込まない限り「ワタシが演劇をやる」なんてことは言えないわけで、実際にはそんなことは全くない! んですよ。
「就職が決まってね…」
「結婚しまして…」
「こどもができたんで…」
「ダンナの転勤が決まって…」
「出世しちまって…」
「今後は趣味の一つとして…」
こころざし半ばで活動をやめなければならなかった仲間は山ほどいる。事情はどうあれ、彼らはその時点で自分の才能を見限ったのである。別にそれは悪いことではない。自身振り返って、とにもかくにも続けてこられたのは「運がよかったから(あるいは悪かったから)」だけだと痛感しています。やってこられたのは(ないしはやらざるを得なかったのは)始めから終わりまで、はやりの言葉で言えばステークホルダーの皆さまのお陰なのでございます。
世話にもなり、信用もしていた人に1千万円近い金を持ち逃げされた。
ということが記憶にあるだけでも3回はある。
全精力を傾注して、飛躍する予感も十分にあった企画が自分のあずかり知らない事情で根底からぶっ飛んで無くなった。なんてことは数えきれないほどだ。
今考えれば、あの時演劇から離れても全く不思議はなかった。
そのつど不思議と「拾う神」が出現したことで、今のワタシはかろうじて存在している。

宗教者のように受け取られるかもしれない、はたまたニヒルに聞こえるかもしれないが、
「演劇をやっている」のではなく「やらせていただいている」。
というのがワタシの正直なところです。

安田雅弘

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