稽古場日誌

ダイバー 倉品 淳子 2015/03/01

修了公演とか『ダイバー』についていろいろ書いたら、ちょっと長くなっちゃいました

昨年の修了公演の演出をさせてもらった。私は“今までと同じようなこと”をするのが苦手なのでどういう作品にすべきか悩んだ。もちろん、今までの修了公演の作り方にも素晴らしいものがある。《山の手メソッド》の基礎稽古を用い自分たちのシーンはすべて自分たちで作る、台詞も関係性もすべて。だから他にはないオリジナルの演劇作品を作り上げることができるのだ。

しかし、山の手事情社の公演はというと、シェイクスピアやギリシャ悲劇など、テキストを使用することが圧倒的に多い。そこで私は研修生公演に、今までの方法に加えて現代文学のテキストを導入した。前回の公演『つぶやきとざんげ』では研修生に台詞を与えたのだ。

世間では、いわゆる演劇公演にはあらかじめ台本があるのが普通であり、役が振り当てられ、その台詞を覚えて、演出家が舞台上での動きを決めると演劇が出来ると思われている。だから、演劇をやっていると「すごいよね~、よくあんなに台詞が覚えられるわね~」というほめ言葉をいただくはめになる。「いやいや、覚えるのは誰でもできますから。」と言うと、「またまた~、だって私には無理だもの~」とか言われる。別に謙遜しているわけではない。ホントに時間とやる気さえあれば誰にだって覚えるくらいのことはできるのだ。

それよりも大切なのは、そのまったく自分とは違う人物(この場合劇作家とか)が書いた言葉を、まるで自分が発したかのように現実味を持って発すること。そのキャラクターが劇の始めから最後まで整合性を持っていること。しかもそれは演出家の作品コンセプトにあっていて、作品全体を助けている事。その結果、魅力的な人物が、お客様の心に立ち上がってくる事。・・・・・・である。これが大変なんだよ~~。

まあ、軽口のおしゃべりにそんな、ロジカルな大弁舌を振るってもしょうがないので、にやにやして別の話題に切り替えたりするのだが、いつかたっぷりじっくり実践を含めて教えてあげたいと思う。私の周りで気軽におしゃべりしている方々は、ある時いきなり私が弁舌をぶちはじめても驚かないように!

さてさて、つい前振りが長くなったが、今回はなんと「ヴォイツェク」を使うとか。なんでこれにしちゃったのかね。こりゃ難しいぜェ。だってだって! 200年以上前ってことは日本はまだ江戸時代だぜェ。だって、日本人の若者だよォ(一人を除いては)全然共通点ないじゃん! しかもドイツ人だから翻訳物でしょ? シェイクスピアほど人気がないから翻訳もそんな種類ないよね? 相当不自然な日本語なんじゃないの? だいじょうぶ?

ちなみに私の時は日本人作家の現代文学であったから、この研修プログラム修了公演自体がより困難で文学性の高い方向へと進んでいるのか。

昨日、ちらっと稽古場をのぞいたら台詞らしきものをしゃべっていた。そこには、その言葉の言いづらさ、居心地の悪さで顔を真っ赤にしながらもがいている研修生がいた。正直言って当人も恥ずかしい、観ている方も恥ずかしい空間だ。まだまだ。でも! 公演までまだ二週間ある。苦しめ研修生諸君! その居心地の悪さを、どう自分の実感や生理と近づけていけるかが勝負のカギなのだ! 逃げたり、その状態に慣れたりしたら、手にすることはできませんよ。ここまでやったらOKという到達地点はないのだ。あなたを見ているお客様がそこにいる限りそのもがきは続くのだ。それが俳優というもの。いやならやめなさい。やりたければ諦めないこと。

そんな厳しいことを言っている私だが、演出現場ではノリとかグルーブ感とかも大事にするので、俳優を少しほめていい気分にさせたり、少しうまくいかなくても場合によってはスルーしたりすることがある。それとは正反対の今回の演出は、あのストイック俳優、大久保美智子。自分にも他人にも厳しい彼女の演出作品を私はとても好きだ。私とは全く違う。私は良く言うと得意なことを伸ばそうとするタイプ、つまり、苦手なところをうまく隠そうとするタイプだ。ところが、彼女は徹底的に苦手を克服させようとするタイプなのではないかと推測される。それは、彼女自身がそうだから。いつも、自分へのダメ出しや批判にもまっすぐに取り組み、理論的にどうすれば打開できるのかを探る。彼女は俳優を、そして人間を信じている人なのではないかと思う。長い目で見れば彼女のやり方はとても正しい。そして彼女の作品もまた、お客様に媚びないまっすぐなすがすがしさを感じる。

『ダイバー』もまた、そんな作品になるのではないかと思う。

倉品淳子

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