稽古場日誌

劇団稽古場のある、大田区池上は、毎年10月12日に、「御会式[おえしき]」という行事で熱を帯びる。
鎌倉時代の仏僧である日蓮上人が入滅した、命日13日の逮夜、すなわち前夜の供養だ。本門寺の境内と参道はもとより、地元の商店街も一体となって、ものすごい人出となる。

お祭りだが、実はお葬式。
こんなにぎやかなお葬式こそ、日蓮にふさわしいのかもしれない。
集まった人びとは、綿菓子を買ったり、焼きそばを食べたりしながら、延々と連なる万灯の練り供養を眺めながら、無意識であれ、日蓮という人の魂に触れるのである。
つまりお葬式とは、すでにこの世にない魂に触れる行為なのだ。

わたしは、演劇はお葬式に似ていると思う。

わたしにとって演劇とは、「この世にない魂と直接出会う」機会である。
もちろん演劇の意義はほかにもたくさんある。けれども、わたしにとってはそれが最大で最終の目的だ。
わたしは「この世にない魂」とときどき直接出会わないと、息が詰まる。具合が悪くなる。珍しい体質なのかもしれない。
が、人間はときおり「聖なるもの」に触れないと弱って滅んでしまう、か弱い生き物ではないのかと思ったりもする。

あまり知られていないが、演劇とは実は「魂」を扱う営みである。
舞台上に何者かを出現させるということは、俳優がその何者かの身体や声を観客に示すことだが、観客は身体や声だけが目当てで劇場を訪れるのではない。
むしろその身体や声の奥に存在するであろう「魂」に接するために足を運ぶのである。接して、日常から少し離れた視界を手にし、帰途につくのだ。

手にするのはどのような視界か。

それは、人生が目の前のことばかりではなく、世界が今この世にある人だけのものではないという視界である。
私たちの背後には、失われた数多くの生命があり、また前面にはまだ出会っていない、同じ時代や未来の多くの命がある。
日常生活に追われ、ともすれば忘れてしまいがちなそうした「魂」に、人間はときどき思いをいたす必要がある。

でないと目先のことだけが全ての判断基準になり、戦争を起こし、過剰な環境破壊をくりかえすことになる。
一見平和な私たちの社会で、自殺やリストカット、うつ病やひきこもりがなくならないのも、ひとつにはそのことがあると思う。

さて、一般に悲劇と喜劇というが、どう違うのか。
悲劇は、悲しいできごとが起こる芝居。喜劇は、ハッピーエンド。ひとまずそれでいい。
別の言い表し方をすると、喜劇は人間社会を人間の視界から描こうとし、悲劇はそれを神の視座から描こうとしている、と考えることもできる。
わたしにとって悲劇とは「この世にない魂を出現させる構造を持つ」物語のことだ。
喜劇にも当然「この世にない魂」は出てくる。しかし、悲劇の方が「魂」の輪郭がはっきりするように感じられる。
ギリシア悲劇、シェイクスピアの四大悲劇、世阿弥をはじめとする数々の能作品などを思いうかべれば、それぞれに魅力的な「この世にない魂」が描きこまれていることがわかる。

近年、山の手事情社の公演に悲劇が多いのは、おそらくそういうわけだ。

安田雅弘

※写真は http://photofunia.com/ で作成しました。

******************************
『タイタス・アンドロニカス』『女殺油地獄』、両作品が「悲劇」であることにちなんで、「私と悲劇」をテーマにした稽古場日誌を連載中です。
それぞれの生活感あふれる「悲劇」をどうぞお楽しみください。

『タイタス・アンドロニカス』『女殺油地獄』公演情報
https://www.yamanote-j.org/performance/7207.html

稽古場日誌一覧へ